文章が巧くなる方法
文章読本的な物が巷では出回っているが、このような類の本を読んで文章が巧くなることはまずない。
平易な文章を書く、或いは業務的な文章を書く意味でなら『あり』かもしれないが、小説の類を書く際には通用しない。
谷崎や川端、他にも様々な文豪にも文章読本はあるけれども、どちらも作品として読むべきであって、真に受けてはいけない。
同様に、新人賞を獲らせる云々の本も読む価値はない。仮にそのような本を読んで獲った新人賞など、書き手の創造性が破壊された上での一夜の夢でしかいない。
友人の評価も危険である。その友人の眼識が正しいのかわかりようもないし、自尊心に注がれるガソリンとしては機能するけれども、甘言は堕落へ転じて、何時しか自分の文体の獲得よりもその場限りの賛辞を求めてしまうから。
文章が巧くなる方法は、
①読む
②書く
の2点であり、①の読むに関しては自分の嗜好に沿ったものを探す、或いは世間的に評価の高い、未だ本屋の棚の一区画を占有する既に死した作家の本を読むに限る。その上で、自分の師とも呼べる作家を探しだしたのならば、その全集を精読するのが一番である。全集は、小説、短歌、日記、詩、エッセイ、対談など、その作家の思想を全て吸収できる一番の教材である。
また、その作家に巡り合うまでに、最低でも1000冊は小説を読んで、作家には100人ほど当たるべし。そうすれば、途中で必ず出会えるから。ただ、それだけ読んでも、隠れた名作や傑物は山のように潜んでいる。
ただ、全集を読んでいて、たまに大好きな作家とは思想が異なることが判明する哀しみも存在する。川端康成は日記では、
『ああ、『罪と罰』がたまらない。』
と『罪と罰』を激賞していたが、私はドストエフスキーが嫌いである。だから、この彼の若書きを読んでがっかりした。『白痴』は良かったけれども(映画監督のアンドレイ・タルコフスキーは『白痴』の映画化乃至はドラマ化を熱望していた)、それでも長いし、枝葉が多すぎる。然し、川端の書く小説は傑作ぞろいで、やはり愛してしまう。
たくさんの小説家を読んでいくと、彼らの横のつながりや文体の特徴、派閥なども理解できて面白い。小説は、決して作品だけで評価されるわけでもないし、世間様の評価が正しいのかどうか、自分で真贋が見えてくる。
そうして、並行して②の書くを続ける。書いて、直して、又書いて、延々と書く。無論、読み続けてきたものを咀嚼し、頭で捻りながら。
小説家になりたいのか、小説を書きたいのか、ここも重要である。
誰かに伝えたい物語がある、とよく人は言うけれども、それならば、家族や友人、ネットに晒せばいいのであって、新人賞に応募する時点で、万人からの称賛乃至は複数の賛同者を求めているわけであって、そのような人間は日本だけでも1万人はいるので、あまり夢は見ないほうがいい。本当にネットにも美しい小説や言葉は散らばっている。その一つの星になれればいいのではないか。
なーんて、偉そうなことを書いている私は、一つも作品を書き上げたことがないのだ。
私のような嘘つきに騙されないように!
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