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男の子のように美しい田舎の娘

2.夏の人形

 昼時になると、ヴィラに隣接した庭を訪れる人が増えてきて、明け方には静かだった部屋にも、人々の声が流れてくる。その声はさまざまな音のつらなりであって、母国以外の言葉も、紛れ込んでくる。一つの音楽のようでもある。
 読書を中断して、部屋の外に出ると、どこからかオルゴールの機械音が聞こえてくる。ねじのからくりで紡ぎ出される不可思議な音色が、イギリスやフランスめいたヴィラと相まってか、ここが日本ではなくて、自分も異邦人であるように思わせる。
 ロビーに降りると、人気がなく、私一人が取り残されたかのようである。オルゴールの音も、どこから聞こえてくるのかわからなかった。私は、急に新しい遊戯を思いついたように、そのオルゴールがどこから聞こえてくるのかを、探し当てようと思い立ち、広くはないこのヴィラに漂う音色に耳を澄まして、うろついた。それは、耳を鼻を利かせるように、音の匂いを探り当てるような遊戯である。
 アンティークの家具類は、このヴィラのオーナーの趣味であろうか。数十万数百万は下らないであろう、ほんとうのアンティークの調度品が並べられており、私は時折立ち止まっては、それらに触れた。一際目立つグランドピアノは、夜の色である。これらはあの、贈りもののフランスの扇を思わせる。
 オルゴールの主は、案外すぐに見つかった。ロビーの脇に小さな燭台が置かれた机がある。その燭台に寄りかかるように、二人の乙女がいる。蛇使いの少女と、人魚である。
 蛇使いの少女の肩からぶら下がるように伸びている白蛇は、赤い目がルビーのようにきらきらと輝いている。少女は、重そうな目ぶたの傘が降りていて、そこからかすかに目の光が見て取れる。
 それから人魚である。人魚は、半身を覆う鱗が青銅のように重たい色味で、その反対に、もう半身の乙女の肉体は、芳醇な桃の色合いで、触れると甘いようである。二寸ほどの大きさの人形で、それは身体の内奥から音楽を歌っているようだ。そうして、その大きさというのは、高島屋で見たあの人形の娘たちを私に思い出せた。
 私が中腰になって人魚を見つめると、人魚はふいに口元を緩めて、ほほ笑んだようだった。やぁと声をかけると、人魚は恥ずかしそうに俯いた。その人魚の小さな頤を、伸ばした拇と人差し指で挟んでやると、人魚は冷たい息を吐いた。
 人魚は、私の指の熱であたたまって、すぐにほほ色を紅潮させた。そして私は、人魚の鱗の一つ一つを仔細に撫でてやった。人魚の足が、大きく反応して、私は、人魚もやはり女であることを、その反応で理解した。
 そうすると、白蛇が私の指先近くまで伸びてきている。白蛇の赤目が私に向けて、怒りを孕んで見つめている。蛇使いの少女が、嗾けているようだった。私は両手を挙げて降参を表明すると、一歩、二歩と下がって、もう一度乙女たちを見つめた。蛇使いの娘は、剣呑な目つきで私を見たままで、口元はかたく結ばれている。人魚は、それとは反対に、ほほは円く緩んでいて、私を見る目の輝くこと。
 私はもう一度人魚のほほに触れて、それから脣に触れた。ふいに、あの高島屋の人形に触れる自分を思い出した。
 私の家にも、あの人形がある。抽選販売で手に入れた、中原淳一の乙女の人形。その娘は、初夏に家にやって来た。
 家に届いた人形をダンボール箱から取り出すと、もう一つ紙の箱があらわれる。それを開けると、中には高級な白亜のクッションで丁寧に保護された、裸のままの人形が横たわっている。それは棺桶さながらで、白一色に囲まれて眠る娘は、目を開けたままの眠り姫である。
 傷つかないように箱から起き上がらせると、裸の娘の肌に遠慮がちに触れていく。そうして、同封されているビニール袋から洋服を取り出して、パンツに、真っ赤なスカート、白いブラウスを着せてやる。ウィッグはほんとうの娘の髪の毛を思わせる。おそらく、ほんとうの人間の髪の毛であろう。その細いのは、若い娘のそれである。
 ウィッグをつけてやると、乙女のほほがほのかに灯ったように見えた。そうして、顔を近づけて、その脣と目を見つめていると、その中に吸い込まれるように思えた。脣からは、かすかに吐息がもれていて、私の名前を呼ぶようである。
 人形を立たせて見つめていると、娘は濃鳶紫のシャドウで囲まれた切れ長の目で、私を見つめ返す。この娘を、白薔薇で化粧してやれば、あの少年のように美しい娘になるのだろうか。人形は何も言わずに、時折私にほほ笑み返すだけである。
 私は、その人形のことを思い出していた。この人魚は、随分古ぼけている。人間で言えば、老嬢なのかもしれぬが、しかし、このヴィラの主人が、この人魚に恋をして、そうして引き取った娘なのかもしれない。
 私は、ロビーに置かれた椅子を引き寄せると、腰を下ろして、人魚を見つめた。人魚は歌うのを辞めて、私を見つめた。人魚を手に取ると、その足の付け根に隠されている、愛らしいゼンマイをくるくると巻いてやった。そうすると、人魚の声は戻って、また歌い出した。
 蛇使いの蛇は、いつしか私を襲うことはなくなっていた。そして、蛇使いの目を見ると、眠りに落ちたかのように、その目ぶたは完璧に降りているのである。愛らしい寝顔で、先程までの冷たい目差しがない。
 庭に目をやると、白髪の老人が、花々の手入れをしている。コスモスの鉢植えを手に、庭を行き来している。このヴィラの雇っている庭師であろう。何度か、あの老人が宿と庭とを行ったり来たりしているのを、見かけたことがあった。
 陽の光が、老人の手を洗った。軍手を脱いだその手は、節々が瘤で老木のように膨れていて歪だったが、光の中で、その指先は器用に動いては、花びらに触れていた。その指先で、花たちは喜ぶように、揺れていた。それは、私が時折人形を可愛がるときに見せる、そのような指先の動きと重なっていて、あの老人には、花がその対象であるように思えた。
 すると、途端に同胞への畏敬の念と、嫉妬の思いとに駆られる。花々は、あの老人の手先で、どのような喜悦の声をあげるのだろうか。私は、目を細めて庭師を見つめ続けた。
 秋の日は庭師の褐色の肌は渚をゆくもののように変化させて、その陰が花々を黒く塗り染める。老人は、このように日々変わることなく花々を愛でて、それが花々の心を開くのか、心なしか、花々はいっそう弾んだように風に揺られている。
 花にも、人形にも、魂や心があるのだろうか。庭師が花を弄ぶ手先は、花々の寝床の土を持ち上げて、ほぐすたびに、父性すら感じさせる。私はその指先を真似て、まぼろしの土を掌の上からぽろぽろと床にこぼす。
 庭師が荷車に用具を乗せて、そこから立ち去ると、私は立ち上がり、先程まで老人が丹念に触っていた花々のもとまで向かい、それらを見下ろす。花は水で清められていて、ほほ笑んでいる。私はしゃがみ込んで、娘や妻を愛するように、花を愛して年老いた男に、人形を愛して楽しむ、ある種の性癖を持つ人々を重ねた。それは、私の人形に新しい召し物を買ってやろうと、その人形の販売会社の経営する施設に、一人立ち寄った時に会った人々である。
 私は、その施設は初めてであったから、いや、むしろ人形を迎えることなどが初めてであったから、彼らの人形への愛というものを間近で見た衝撃というのは、例えようのないものであった。
 人形を、恋人や配偶者のように愛する者のことは、本で見知っていた程度であるから、その人形に手製の洋服を着せて、写真を撮ったり、食事をしたり、人形の友達や恋人に合わせてやる、そういうことのいちいちを幸福そうにすることは、私に新しい感覚を与えた。
 中でも、化粧台に人形を座らせて、まるで美容師のように髪を梳かしてやり、化粧をほどこす女に、美しい愛情のしるしを見て、胸に迫るものがあった。その女に、化粧した人形を見せてもらうとどうだろう、人形はいきいきと美しい脣を艶めかしく私に向けて突き出してきて、そのおしゃまな仕草に、私は魂を見るのである。
 そうして、その施設の中庭で、思い思いの写真を撮る人々、恋人と微睡む時間に類する晴れ晴れしい時間を過ごす人々を見つめながら、私は私の人形を思った。
 高島屋で出会ったあの人形に惚れ込んだのは、私の恋する、男の子のように美しい田舎の娘、ないしは東京の娘に見立てたからではあるが、彼らはどうだろうか。彼らも、あの人形たちを、彼らの愛する人々の代替品として、愛好しているのだろうか。
 私の視線に気付いたのか、写真を撮っていた男の一人が、人形を伴って私の元へと近づいてきた。
 男は、空色のパラソルの下の私の向かいに座ると、人形をその隣の席に置いて、私を見つめた。男は、私を見つめたまま、
「今日はお一人?」
人形の連れがいるのかどうかだという問いだと、私には思われたので、
「家で留守番をしています。」
私の返答に男はほほ笑んで、隣の娘を撫でた。娘は、長い髪を腰まで伸ばしていて、それは人間のもののように、黒々としていて、白髪の一本もない。若い娘と思われた。その人形の目は、私の人形よりも幾分か大きい。くりくりと光るようで、その目に見つめられると、私は息を呑んだ。ほんとうの少女に見つめられるように、戦くような思いに囚われて、思わず目を背ける。
「お洋服でも買いに?」
「まぁ、そんなものです。まだ新参者なんです。」
「そうですか。」
男は、あくまでもこのパラソルの下で、連れの人形との戯れを楽しむようである。私は、男と人形を、交互に見た。男が、この人形に、喪った誰かや、手に入らなかった女を重ねているようには、とても見えなかった。それは、この少女の人形が、男とは懸け離れた、天上のニンフさながらの美しさで、少女のまとうワンピースのその下には、見事な翼が折りたたまれていて、彼女は彼にとっての熾天使なのであろうと思えたからである。この男の人形に抱く愛情というものは、偶像を愛する宗教の近いものかもしれないとも思えるが、その偶像を具現化し、手元に置くのは、人様には通用せぬ狂信かもしれぬ。
「それは恋人?それとも、妹?」
私の問いかけに、男は何も答えずに、ただ眩しそうに白くきらきらと光る庭の芝生を見つめている。
 そして、その帰り道に、私はあの人形を美しく化粧する女を見かけて、声をかけたのだった。女は、初めは怪訝な顔で私を見つめたが、人形の話をすると、施設で話した男だとすぐに気付いたのか、顔をほころばせた。
 女は、人形の洋服をつくろうことも、化粧をしてやることも、生き甲斐であると、私に語った。町中にある、カフェの一角で、そのようなことを身振り手振りで話す女である。次第に、精神病院の一角で、夢魔に犯されてた悪夢に取り憑かれて、その恐怖を目を剥きながら話す、そのような映画の人物が思い出された。女は、夢見るような顔立ちで、人形の脣に紅を引くときの喜びというもの、ほんとうの娘をきれいにしてやるような感覚というものを、私にも味わって欲しいと言った。
 それならば、ちょっと私の家に寄って、私の人形に、化粧をしてやってくれないかと、そうお願いすると、女は現実に引き戻されたように、また道中で呼び止めた時と同じような怪訝な目で見つめてくる。
 しかし、女は私の持つ人形に化粧をしてやる、そのことへの魅力に抗いがたいのか、私の後について、私のアパートまでやって来たのであった。
 女は、所在なさげに部屋の中を見回すと、早く人形を見せてと、か細い声でそう言った。レースカーテン越しに差し込む陽の光に目を細めている。私は、仕事部屋の机の上に置かれた私の人形を、女に見せた。女は人形のほほに手を伸ばして、持っていた化粧ポーチから化粧道具を一式取り出すと、姿見をないのかと私に尋ねた。姿見を差し出して、女の作業するのを後ろで見守りながら、先程あの施設で見た、男が愛おしそうに抱く、ニンフの化身を思い出していた。あの人形も、美しく化粧されていて、心が通うようだった。あれは、あの男が化粧してやったのだろうか。
 女が嬉しそうに、この娘の肌はまだ年頃だわとそう言うと、私は頷いた。まだ男も知りませんからとは言わずに。
 化粧が終わると、女は人形を抱きかかえて、机の上に置いた。そうして、ポーチから簡易のライトを取り出すと、それを下から人形のほほに当てた。私は息を呑んで、人形を見つめた。美しくめかしこんだ人形のほほ笑みが、私の恋する娘そのものだった。脣が動いて、私の名を呼ぶのが聞こえた。幻聴ではないような気がした。
 あの女に化粧された人形は、みな魂を吹き込まれる。あの庭師に育てられた花も、みな化粧されたように、みずみずしい。
 私が庭師の手入れしたコスモスに触れると、コスモスは何も言わずに、香しい匂いだけが、鼻腔に漂った。
 立ち上がり、ロビーに戻ると、オルゴールの音が止んでいた。人魚に近づくと、人魚は眠るように、目を閉じていた。私が花にうつつを抜かしていたからか、それとも私が私の人形を思い出したのを女心で見抜いたのかはわからないが、もう足にも触れさせてくれない。
 ロビーのソファに座ると、私はそこに置かれている写真集を手に取った。ぱらぱらと捲ると、それはオルゴールの写真集のようで、蛇使いも、人魚も、そこにモノクロの写真で掲載されている。
 私は、眠ってしまった人魚に心を寄せそうになったものの、しかし、私の人形の、夏の光の中で化粧をした月や雪のように白いほほを思い出して、もうそこに近寄ることもなかった。

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