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消失した幻想文学者

富ノ澤麟太郎という小説家に関して。

幻想文学、或いは、新感覚派に属する夭逝の小説家である。
25歳で亡くなったが、親友は横光利一だった。

新感覚派といえば、まさに筆頭が横光利一であり、川端康成である。少なくとも、世間一般ではそうなっている。

富ノ澤麟太郎に関しては、作品が読める媒体が圧倒的に少ない。
彼の親友である横光利一が編纂した『富ノ澤麟太郎集』という書籍が存在するが、それ以外では読む術があまりなく、一般的には完全に消えた、或いは出現すらしなかった作家である。
書物としては、様々な文学全集に掲載はされているが、それらも古書であり、稀覯の類である。

『カリガリ博士』に強い影響を受けたとされるそれらの作は、日夏耿之介や澁澤龍彦、塚本邦雄などにも通じるものがある。

師匠は佐藤春夫である。彼もまた独特の、詩的幻想を書くのに特筆した人間であって、幻視者は幻視者を共鳴する。
(佐藤春夫は門下3000人なので、弟子があまりにも多いのだが)。

私は、埋もれてしまった作家、というのに非常に興味を覚える。
埋もれてしまった人、埋もれなかった人、この二つにどういう違いがあるのか。
富ノ澤麟太郎は25歳で亡くなったは、死後評価されたわけでもない。逆に、宮沢賢治は生前評価されずに、死後永久不滅ともいえる命をもった。

現代を生きる作家でも、そのほとんどは消えゆく運命だろう。同時代の人々の興味を勝ち取ることだけがゴールであり、大金を得て、名声を得る。
世俗の会社と変わらぬつまらぬ出世遊戯に興じているわけだ。
菊池寛は本を売るために芥川賞を作ったが、その芥川賞も権威が失墜して、最早形骸的になり、代わりに本屋大賞がすごい、など、そもそも比べる土台の異なる文学賞を持って比較したり、わけわかめである。
恐ろしいのは、菊池寛の作った文学賞、或いはその呪いのような権威が現代にも生きていて、それに盲目的に踊らされる人が数多いることである。

富ノ澤麟太郎の書籍は、現代の本屋さんではほとんど書棚に存在しないが、然し、彼の本は、彼を見つめていた、彼の友だった男により(横光利一)、遺されようとした。それは、草野心平が心酔していた宮沢賢治もそうである。それこそが、価値のあるものではないのか。
横光の編纂した作品集はその出来や校閲などがよくないらしいが、然し、そのような物語が生んだ物語こそが、真に価値のあるものだと私には思われる。

何よりも、幻想を描く者ならばそれは理想だ。幻視者は、幻視者を呼び(それは、念能力者同士が惹かれ合うようなものかもしれない)、いつしか、描かれた幻想は現実の物語となって、書籍、或いは現代のネットの海を漂う。

おれは夢と現実とを分つことが出来ない。 のみならず、何処に現実がはじまり、何処に夢が定まるか分らない。 それを決定することが出来ないのだ。 クラリモンドに愛された僧侶…………詩人たちが謳う人生の滓のなかにあって。


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