太宰治VS石上玄一郎 消えない作家と消える作家
最近、石上玄一郎の全3巻の全集を購入し、読み耽っている。
石上玄一郎は太宰治との関係で識られているが、まぁ、太宰治の同級であり、太宰治がその作品の出来栄えに衝撃を受けて、自分の同人誌『文芸細胞』に誘ったが、話が合わなかったため断られた。全寮制だったのだが、太宰だけは親戚の家からの通いであり、金持ちであったため、そんな金持ちのドラ息子の道楽雑誌には付き合う気はない、同人誌とは皆で金を出し合ってやるものだ、という理由である。
そして、他の皆と違い、大島の袖を着て、雪駄を履き、角帯を締めて歩いている洒落者だったため、歌舞伎役者のようで、非常に鼻についたようだ。
お家の部屋には三味線が立てかけられていて、そこもいけ好かない。
まぁ、石上玄一郎は左翼なので、そのような態度、姿勢には人一倍敏感だったのだろう。そして、太宰の、作品を書く度に人に見せて、「どうだ?傑作だろう?」と言って褒められるのを欲し、貶されると不機嫌になるその姿にも、ムカついていた。
太宰はその頃は永井荷風、里見弴、久保田万太郎、泉鏡花にハマっていて、然し石上はドストエフスキー、ツルゲーネフ、トルストイという、完全にロシア文学シンパであり、そもそも話は合わなかった。
然し、石上は太宰治の文章の巧さには素直に舌を巻き、互いに実力者だと認めあっていた。
そして、太宰は当時外国文学ではクライスト、即ちハインリヒ・フォン・クライストに傾倒していて、石上と話す中で、「あんなすごい作家がいては、とっても俺なんか小説書いたってだめだなぁ。君はドイツ語をやっているんだから、彼の作品を訳せばいいよ。」と言っていたそうだ。
そして、クライストは34歳の若さで、湖畔にて妻とピストルによる心中を遂げており、38歳で心中してこの世を去った太宰との奇妙な重なりに、石上は思うものがあった。
で、石上玄一郎という作家は今はほぼ読んでいる人もいないため、全く話題にもならない。私も最近読んでいるが、不勉強なのでよく識らなかったが、処女作とも言える『針』の文章の卓抜さは素晴らしい。表現方法に逃げておらず、とにかく「うめぇな……。」という、文学リテラシーゼロの感想を抱いてしまうほどに、見事に物語に人を引き込んで、導線をきちんと敷いており、幻想の中に引きずり込まれるような感慨を抱かせる。
『針』に関して言えば、日本の身分制度が下敷きに描かれており、寒村における贈り物として足袋を縫うその針における物語、祖先が下賤な階級に置かれていて、その彼が鷹匠の鷹の餌となる小鳥を吹き矢(口に銜えてそのまま放つ)にて羽を貫き生け捕りにする、そこで使われた針の逸話の語りから物語が始まるのだが、小説というものはこういうものであると、改めて感じ入った。
まだ読めていない作品も多いので、消化していかなければならない。
で、私は、川端康成の作品とか好きだが、あれは小説ではない。いや、まぁ、小説なのだが、あまりにも気分で書きすぎていて、雰囲気重視であり、そこに構成の妙はなく、谷崎の持つような、物語として小説としては一切評価できない、と私は思っている。つまり、物語小説ではない。いや、まぁ、物語なのだが、そこに緻密さは他作家と比べるとあまりない、ということである。
散文芸術であり、然し、散文と物語小説というのは別にそこに貴賎はないので、どちらが上、ということもない。
物語の形式を持つ小説は、一等上に置かれる風潮がある。物語小説こそが、いや、映画でもそれは同じで、物語として、ストーリーとしての面白さを、人は高く評価する。
これは、消えない作家と消える作家を考える上でも、とても重要なことである。
そして、石上玄一郎は消えて(とはいえ、御年99歳、2009年までご存命だった)、川端康成や谷崎潤一郎、或いは三島由紀夫は生き残っているのは何故だろうと常に思う。
まぁ、わかりやすい、ということと、思想性がない、或いはあっても理解しやすい、といったところ、合わせて、わかりやすい風俗を描いている、日本文化を書いている、というところだろうか。
パフォーマンスも重要である、自殺、いや、まぁ、自殺は全然パフォーマンスではない悲劇ではあるが、劇的な自決は作品外での評価に傾きやすい。
谷崎は佐藤春夫との細君譲渡事件やその後の計3回の結婚、川端康成の逗子マリーナでのガス自殺、三島由紀夫の割腹自殺、太宰治の38歳における心中、それから有島武郎など、今や心中でしか語られていないのではないか。
また、中上健次もその出自と40代での急逝で評価が高まっている感もある。
人は、物語作品も好きだが、現実の物語性も好んでいる。何故ならば、普通の人の現実はつまらない日常の積み重ねであり、ここではないどこかへと連れていかれること、その日常の破壊を無意識か意識的か、何れにせよ望んでいる。
だから、日々のニュースで起こる様々な劇的な人間関係の縺れや事件に刺激を受けて、好き勝手言い合う。
物語の書き手が劇的な物語を人生においても全うすることは、それはすでに神話であり、羨望や嘲笑も含めて、その人生そのものが作品となるのである。
そして、それには往々にして女性、の影が濃厚につきまとう。自殺には女性の影が常に付きまとう、この言葉に私は同意するものだが、伊藤整は、「女性を書かない作品は売れない」といい、そしてその言葉の通り、女性は大衆小説には必要不可欠な要素である。恋愛こそが人間の持つ三大欲求の性欲の前段階であり、セックスへの微かな導火線こそが、人が物語に手を取る大きな要因の一つであるからだ。
自殺は悲劇として最大の媚薬であり、心中は男女、或いは同性でも構わないが、最高位のセックスであり、恋物語の極点だろう。
美を書く、ということで、谷崎潤一郎、川端康成、このあたりは完全に女性を美しく書く名手であり、そこに日本文化への憧憬が入り、かつ読み易く、表現も見事であれば、まぁ、それはもう売れるよね、という話であり、逆に、政治色濃厚であったり、思想が全開だと、谷崎川端よりも幾分も上のことを書いていても、誰も読んでくれないのである。あと、やたら知識を要求している、読者にも鑑賞眼の高さを求める作品、ニッチ過ぎて、読者が20人くらいしかいない作品もなかなか売れない。
まぁ、ニッチ過ぎるものは、地下で半永久的に生き続ける魔術プロテクトが発動するのだが。
三島由紀夫はそれでも美、というものに対してそれらを媾合させて、非常にわかりやすく、大衆的にしていると思われる。そこに、クーデター的自決のインパクトは、まさに神話になるに相応しい帰結であろう。
石上玄一郎は、左翼であり、活動家でもあって、マルクス主義に傾倒していたりと、高畑勲とかと気が合いそうであるが、然し、その活動の矛盾などで段々とそういうものに懐疑的になる。
太宰治に関しても、甘ったれたところ、弱いところが、自分たちの活動には到底入り込む事ができない、彼のいいところは別の場所でこそ花開くのでは……と、学生時代に思っていたそうだ。
まぁ、永久に残る作家、というのがいるのかどうかは識らないが、少なくとも、才能に溢れていても、消えていく存在、というのは多く存在している。