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美獣

1-4

 シャワーを浴びた美月は、恵のシャツを借りた。『彼』は何も言わずに自分のグラスに酒を注いでいた。
 美月の代わりに公武が座を立って、シャワーを浴びに行くと、美月が、
「ごめんなさい。先生、私……。」
「美しいでしょう。公武は。」
『彼』は咄嗟の言葉に、美月はほほを染めた。恵はほほをゆるめた。
「ほんとうに美しいと僕は思うよ。男の僕でも見惚れるんだから、女の君たちからしたらなおさらでしょう。」
「ほんとうに、公武さんはとても美しいですわ。でも、心が美しいんですわ。」
「ほう。心かね。」
美月の答えに、興味が湧いたように、『彼』は身を乗り出した。
「そうですわ。雨の中でも、追いかけてくださいましたわ。励まそうと、踊りを踊って。」
「それじゃあ動物の求愛だね。本能のままの、子供の愛だね。」
そう言われて、美月はまた赤くなった。
「公武の牧神はほんとうに美しい。ニジンスキーは狂って死んで伝説になったけれど、その伝説がね、またおりてきたようで。あの振付の発想のもとはわかる?」
「ギリシャのレリーフでしょう。」
美月の代わりに恵が答えると、『彼』はうなづいた。
「そうなんだ。ギリシャのレリーフだよ。バレエの中でもパを捨てた舞だから、当時から賛否はあったけれども、そのレリーフと同様に、ニジンスキーは横面の振付をしたんだよ。他にも、ルーヴル美術館で見た、エジプト・コレクション。多分にギリシャやエジプトの要素が交じっているわけだ。そうして、さっきも言った横向けの振付だけど、そうすることで、神々の世界を作ったんだね。古代の壁画というものは、全て横を向いているからね。美しい振付で、あのニジンスキーの天才だろう。芸術の頂点だよ。公武の牧神を見た時に、僕はほんとうに心に火が灯ったのを覚えているよ。美しい火がゆらゆらとね。」
「でも人形じゃない。複製なんだもの。ぺトルーシュカよ。」
恵にそう言われて、『彼』は哀しい目をしてほほえんだ。
「そうだね。複製だ。だから哀しいものだね。公武がどんなに美しく舞おうとも、過去が輝くだけなんだからね。」
『彼』はそう言って酒をあおった。
「過去のニジンスキーの伝説がね。生きている誰もがその舞を見たことがないんだから。」
「でも私はあの舞は嫌いだわ。」
恵はそう言うと、挑むような目つきになって、『彼』を見た。
「ふむ。『牧神の午後』かね。」
「ええ。だって、あの不自然な動きの良さっていうものが、私にはまったくわからないんですもの。ダンサーはほとんど横顔しか見せないじゃない。」
「そうだね。動くレリーフだから。あれはデザインを担当したバクストがニジンスキーをルーヴル美術館に連れて行って、そこでレリーフを目にして、振付に取り込んだんだよ。彼はわずかの間に、この作品のリハーサルを九十回、人によっては百二十回もやったと言われているね。」
「先生も、公武とそんな風に作品を作りたいの?ニジンスキーとディアギレフね。」
「それなら君がパブロヴァで、美月さんがタマーラかな。さながら日本のバレエ・リュスだね。」
「私は私だわ。」
恵はむっとしたように眉間にしわを寄せて、
「そうだね。公武も公武だし、美月さんも美月さんだ。」
「たしかに『牧神の午後』は美しいわ。ニジンスキーは牧神そのものの美しさだわ。でも、同じニジンスキーなら私は『薔薇の精』が好きね。『薔薇の精』の写真は、モノクロなのに赤いほほと脣が浮かぶようで、ほんとうに美しいわ。」
『彼』もその写真を思い浮かべた。男性の中に女性がいる。女性が男性を纏っている。そのようなニジンスキーの、艶やかに美しい写真だった。天を見上げるニジンスキーは、人間を超越して、精霊かなにかの具現だった。
「美しいパ・ド・ドゥ。あれこそがバレエよ。」
「恵は肉体の美しさ、運動能力の美しさにこそ美を見出すわけだ。」
「ダンサーの美しさもね。先生は、バレエは総合芸術だっておっしゃるでしょう。絵も、音楽も、身体も、物語も、全てが含まれていて、芸術の頂点だって。」
「ただその中に言葉がないからね。だから所詮、言葉は芸術の中の最底辺なわけだよ。バレエは動物や、命そのものだ。言葉は糊塗するからね。魂に化粧をしてしまうんだ。」
 話を中座するかのように、公武がシャワーから戻った。ぬれた髪から水が滴り落ちて、畳を黒く染めた。恵が少しいやな顔をした。公武の後ろから、お手伝いが盆に料理を乗せてやってきた。
 公武の目に、美月が、二人の会話をくいいるように見つめているのが見えた。恵の『瀕死の白鳥』を見た後の美月は、どこか恵に対して尊敬を抱いているように思えた。対抗心もあるだろうが、しかし、かすかな劣等も見える。
 公武から見て、美月は素晴らしいバレリーナに思えた。生まれてすぐに何人もダンサーと組まされて、その中でも美月の才能は秀でていた。さきほどの、明月院の紫陽花に囲まれての『薔薇の精』。その踊りも、薔薇の精に焦がれる娘そのものの可憐さで、かわいらしいダンスだった。劣等を覚えるのならば、それは自分の方ではないのかと、公武には思えた。
 美しいニジンスキー。その踊りを語る二人は、まさしく過去に生きていた人間のニジンスキーを見ていて、その複製品である公武は、まさに代替品だった。自分の姿形にそっくりなダンサーを目の前で褒められるのは、公武に奇怪なことだと思えた。
 そして、『彼』は小説を書くことに、何か劣等感を抱いているのだろうか。『彼』の言う芸術に、言葉は存在していないようで、そのことが、『彼』を動物やバレエに走らせるのだろうか。
「言葉でいくらか取り繕うとね、そうすればそうするほど、言葉が浮いてきて、胸に流れてこないんだよ。」
「でも、美しい小説だってたくさんありますわ。」
「天才のね。天才の小説は美しいね。でも、その美しい小説たちも、バレエの美しさには適わない。人間の美しさにね。」
美月の言葉を、かなしそうに受けると、『彼』はまた酒をあおった。
「小説もね、長くなれば長くなるほど、基本的にはつまらなくなるね。それは言葉を重ねすぎるからだと思う。求愛の言葉も、長ければ長いほど、それは大袈裟で嘘くさくもなるだろう。それと同じことのように思うね。だから、長編小説よりも短編小説、短編よりも掌編、掌編よりも詩、詩よりも俳句、俳句よりも一言だけの揮毫。」
「どんどん小さくなるのね。」
「バレエだってそうだろう。長い長い『眠れる森の美女』はディアギレフの悲願だったが、全五場の壮大なもので、当時の観客からはあまり芳しい評価ではなかった。バレエも二幕か三幕程度で充分だね。」
「じゃあ『牧神の午後』は十分ね。」
「そういうものだと僕は思うよ。言葉も短い方がいい。文献や評論はまた別だが、あれは真の芸術ではないから。詩がいいと思うのは、『薔薇の精』も、『牧神の午後』もひとつの詩から派生して、生まれ落ちただろう。」
「マラルメですね。」
公武が応えた。
「マラルメって?」
「ステファヌ・マラルメ。フランスの詩人だよ。『半獣神の午後』という、『牧神の午後』のモチーフになった詩を書いた男だよ。」
「『薔薇の精』は?」
「ティオフル・ゴーチェ。」
「じゃあ先生は、言葉を使う芸術で、詩だけが特別なものだと考えてらっしゃるの?」
「まさにそうだね。詩だけが芸術への想起に繋がっている。種みたいなものだね。美しい花を咲かせる愛らしい種。」
 食事はしばらく続いて、『彼』はずいぶんと酔ったようだった。お手伝いに枕を持たせると、そのまま畳の上で寝てしまった。その寝顔を見つめながら、恵は、
「先生の芸術観はわからないわ。まるで正反対なの、私と先生の演目の好み。」
「でも、先生が恵さんを見出したんでしょう?じゃあ、先生の理想とするバレリーナって、やっぱり恵さんみたいな方なのかもしれないわ。」
「どうかしら。それでも、公武みたいなのを買うんですもの。なんだかんだで、ディアギレフシンパなのよ。」
恵は『彼』のグラスを手に取ると、残された酒を飲み干した。美月はおどろいて、
「だめよ、恵さん。」
「あら。私はもう十八だわ。十八も二十も、そんなに違いはないわ。」
「でも法律で……。」
「くだらないわ。そんなもの守ってる女なんて、いやしないわ。あなたみたいな夢見る乙女以外はね。」
そう言われて、美月はほほを染めた。耳まで赤くなった。
「でも公武がお気に入りならそれでいいかもしれないわ。法律を守るだなんて、夢見る乙女と、童貞だけでしょう。」
恵は公武を見てほほえんだ。侮辱されて、公武は口をつぐんだ。酒のせいか、恵はすぐに美月よりも赤くなった。
「私たち、お似合いでしょう。こうすればもっときれいになるわ。」
恵は美月に近づくと、両ほほに手を添えて、その脣に脣を重ねた。美月はおどろいて、何も言えず、しかし、目に火が揺れた。
「何事も経験だわ、美月ちゃん。乙女の役割にはぴったりだけど、火の鳥や牝猫にはまだ早いわ。」
美月は脣を手の甲で拭った。その甲に真っ赤な薔薇のように紅がひろがった。
「恵さんは、どんなバレリーナを目指してるの?」
美月は、今度は挑むような顔つきで、恵にたずねた。恵は首を傾げてみせて、
「美しく踊れたらそれでいいわ。楽しければなおいいわ。それだけで充分なの、私。」
恵は二つの目をきらきらとさせながら答えた。夜闇に、星がまたたくようである。
「公武はどう思うの?」
ふいに振られて、公武は答えにつまった。答えなど持ち合わせていなかった。しずかにかぶりを振ると、
「やっぱり器だけね。ぺトルーシュカね。」
恵は酒に酔ったのか、ふらつきながら立って、そのまま部屋を出て行った。
「恵さん、大分酔っていたわ。」
公武はうなづいて、恵の後を追った。恵は縁側から裸足のまま庭に下りると、そのままステップを踏んだ。外はもう雨がやんでいて、月明かりが照っていた。迫り落ちてくるかのような大きさの月である。その下で、恵は一人でステップを踏み続けている。千鳥足のように見えて、正確なパである。酔っている演技をしているのかもしれない。公武は縁側の上から、恵を見つめ続けた。
 恵の手足が軽やかに揺れるようだった。それは、『くるみ割り人形』の、花のワルツだった。聞こえないようで、まぼろしの音楽が、公武の耳に届いた。公武もつい、縁側の上でステップを踏みたい衝動に駆られたが、しかし、踊る演目が、公武の心をあざ笑うかのようで、恵の奇怪な心理を見るようだった。
 恵は、公武を人形だと罵って、どうしようというのか。『彼』の寵愛を奪った公武に、怒りの思いがあるのだろうか。それならば、何故楽しく踊れれば充分だと、そう嘯くのだろうか。たかが人形が、自分の主人の愛情を得ていることに、舞姫になり損ねた娘はひがんでいるのだろうか。
「あなたは踊らないの?」
「身体が汚れますから。さっき、御父様からシャワーを借りたばかりです。」
「いいじゃない。今頃畳の上で夢の中よ。あなたの夢でも見てるんでしょう。来なさいよ。」
泥が散って、公武のいる縁側まで届きそうである。公武はため息をついて、
「いいえ。やっぱり先生に怒られます。」
「やっぱりお人形さんね。マネキン人形ね。今頃、先生はあなたの踊りを夢見ているわ。私がそれに入ろうって話、そんなに気にくわない?」
人形と言われて、公武の心にかすかに火が散った。それは、美月を見るとき、美月と踊るときにゆれる美しい火ではなく、毒々しいほどに赤い色の火だった。公武はかぶりを振って、
「御父様が大切にされている盆栽もあります。私には踊れません。」
「踊らないあなたなんて、何の価値もないじゃない。」
そう言って、恵はステップを踏むのを辞めて、公武を見つめた。公武は途方にくれたように顔をゆがめて、
「なぜそんなに僕のことをいじめるんですか?」
「いじめる?いじめてなんかいないわ。」
「いじめています。罵っているじゃないですか。僕を侮辱する言葉ばかりです。」
そう言うと、恵はほほえんで、
「だってほんとうのことじゃない。あなたは人形で、器じゃない。ほんとうのニジンスキーじゃないじゃない。」
「そんなことは僕もわかっています。自分が複製だってことも知っています。でも、人から言われると、心が痛みます。」
「人並みに魂があるっていうのね。」
心の中の火が焔になって、今にも手が出そうになった。しかし、公武は堪えた。
「あなたはニジンスキーの最後を知っているの?」
「精神病のまま、死んでいきました。」
「そうよ。だから器で、外側だけが同じなだけで良かったじゃない。もし魂まで一緒だったら、あなたも狂うわ。狂って死ぬのよ。」
酒が恵を饒舌にさせているのだろうか、恵はときおりほほえみを浮かべては、縁側の公武を見上げた。ふいに、恵の視線が左に動いた。公武がつられて視線を動かすと、美月がすこしだけ開いた障子から顔を出して、こちらを見ていた。
「もう帰りますわ。」
美月はそう言うと、
「送って下さる?」
公武はうなずいて、そのまま美月の後を追った。
 取り残された恵は、右足を上げると、その場でくるくると回った。

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