ステファヌ・マラルメの全集
本が好きで、装丁の綺麗な全集は手にしたくなる。
ステファヌ・マラルメの全集もそうで、全5冊だが、その容量は恐らく新潮社版川端康成全集全37冊よりも濃厚である。
このフランスの詩の巨人は、まさに巨人であって、読んでいても歯が立たない。
まず、この全集の1〜3巻には注釈本がついている。解説本であり、マラルメの詩やエッセイの解説が延々と書かれている。この解説本が既に辞典である。
ステファヌ・マラルメは19世紀のフランスの詩人で、偶然の介在しない完全な詩を目指していた。彼の書いた『半獣神の午後』はワツラフ・ニジンスキーによって『牧神の午後』というバレエ演目になった。
水辺で戯れる二人のニンフを見た牧神のパンが、彼女たちのことを思って夢想し、バレエ演目の『牧神の午後』では、最終的に牧神=ニジンスキーはニンフの残した衣を匂いで、股間を地面に擦り付けて自慰をし、幕を閉じる。大変なセンセーショナルだったようで、ニジンスキーの天才が周知されたわけだ。ニジンスキーは自らの振り付けの作品は数本しかなく、独創すぎ、かつ精神の病を囲って最終的に不遇になった。その辺りの精神崩壊は『ニジンスキーの日記』に詳しく、ディアギレフ率いるバレエ・リュスの頃のパートーナーのタマラ・カルサヴィナと後年会った際には、彼女が誰であるかすらわからなくなっていたそうだ。
話をマラルメに戻すと、彼の詩は難解で、大江健三郎も彼を巨人と認識していたけれど、本当に巨人なのだ。『骰子一擲』という、彼の代表作があるが、私は何度か目を通したが、通読する前に限界が来た。初期の作品である『あらわれ』なんて美しいし、若々しいきれいなものに満ちていて好きなのだけれど、彼の作品のほとんどは私にはわからないし、敵わない。
ただ、彼がミューズであるメリー・ローランに向けて書いた詩は好きである。それは、文学の半分は恋で出来ていて、その恋は本当の感情であって、誰しもが触れられる、或いは触れてきたものだからかもしれない。
『扇』や『エロディアード』などは、メリー・ローランのイメージかもしれないが、『あらわれ』は奥さんとの初めての頃を歌っているのだろうか。
純粋な、若い恋が立ち顕れていて、美しい詩である。
数年前、マラルメの翻訳で識られる鈴木信太郎記念館に行ったことがある。
ちょうど、マシュー・ボーンのモダンバレエの『スワン・レイク』を観に行った翌日のことである。
そこには鈴木先生の蔵書が山のようにあって、その中には『大鴉』の特製本もあって、大興奮しながら見ていたが、何よりも建物が良かった。ハリー・ポッターかなにかの図書館に紛れ込んだような、本だけの世界、そこに柱時計のカチカチとした音が響く。人はだれもいない静寂である。
そこに、一冊ポエジイという本が置いてあって、キリンが描かれた愛らしい表紙で、私の夏の日のわすれられない一日になった。
後日、ネットで探したらあったにはあったが、高いんだよなぁ。