シュトロハイム大全② 私なら御することができる!(出来ませんでした) 『クイーン・ケリー』
『クイーン・ケリー』はエーリッヒ・フォン・シュトロハイムの8本目(正確にはそれ以下だが)の監督作にして、未完成作品である。
当時、サイレント映画の大物スターであるグロリア・スワンソンは、藝術映画としての傑作を物すべく制作会社を興しプロデューサーとして、自らが看板女優として、映画を作る動きをしていて、そして白羽の矢が立ったのがエーリッヒ・フォン・シュトロハイムである。
曰く完璧主義者で映画づくりに金を湯水のように使う。
曰くサディスト傾向があり、主演女優主演男優といつも衝突する。
曰くフィルムフェチであり、足フェチである(元祖タランティーノ!)。
なにせ、シュトロハイムのSはドルの$だと映画会社から言われる男である。
然し、スワンソンとしては、彼の作品が紛れもない傑作であり、天才藝術家であることを理解していた。
スワンソンは当時愛人であった第35第大統領ジョン・F・ケネディの親父であるジョセフ・ケネディと組んで金を集めてこの企画を自分主演で制作した。
元来、映画というのはプロデューサーが1番の力を持つ。監督は現場監督であり、俳優はさらに下だ。映画監督も俳優も、自らの作りたい映画のため、ファイナルカット権(編集権)、お金のために、制作会社を興し、プロデューサーになって、質の高い映画を作ろうとする。
ブラッド・ピットはプランB、レオナルド・ディカプリオもアッピアン・ウェイなどの制作会社を興している。
『クイーン・ケリー』は未完成ながら比類なき美しい映画だ。
それは、シュトロハイムの贅沢趣味、耽美趣味、デカダンス趣味がこれでもかと詰め込まれているからだ。
その藝術趣味のために、毎回スタジオは煮え湯を飲まされることになる。金がなくなる。どうでもいい、画面に映らない部分までも拘るからだ。
そういうことは映画界ではよくある。映らない箪笥の中までも美術を凝る(泉鏡花原作、坂東玉三郎監督の『外科室』だったかな?)、そのような、美をどこまでも敷き詰めていくことにより、演者の気持ちも高めて、世界そのものの濃度を濃くして、匂い立つような世界へと変じさせる……。
それ、いる?
プロデューサーはそう思うだろう。無論、スワンソンは初めは自分ならばシュトロハイムを御することができる、と考えていたわけだ。恐ろしいほどの暴れ馬、狂王であるこの監督を、自らが上手く乗りこなして共に傑作を生み出そうと……。
初めは、『沼地』というタイトルだった。基本的には、修道女であるケリーが皇子に恋をするが、皇子の許嫁である狂王女にそれがバレて叩き出されて、零落する。叔母のいるアフリカへ行き、彼女が経営していた娼館の跡を継ぐことになり、しかも、そこで身の毛がよだつ男ヤン・ヴリヘイトと結婚することになる。然し、絶対に結婚相手には肌は触れさせない。囚われていた皇子との恋の行方は……という話だが、まず、この『沼地』のタイトルが「この題名、駄目だな、魅力的じゃないよ!」と配給会社から駄目を出されて、『クイーン・ケリー』になった。
これは元々シュトロハイムの持ち込み企画で、スワンソンとケネディと会う時に見せたシナリオだそうだ。
これらの話は、紀伊國屋書店から出ているDVDのブックレットが非常に丁寧に解説している。廃盤だが。
で、今作は撮影スケジュールが遅れに遅れて、、朝1番からの撮影が翌日の朝までかかる、完徹24時間撮影という、どう考えても許されないスケジュールの撮影が41日のうち21日あった暗黒時代であり、それで既に制作費を40万ドルもつぎ込んでいて、まだ半分も撮影は終わっていなかった。しかも、更に40万ドルかかるのだという。
さらに、非常にセクシャルかつ侮蔑的な演出方法に、スワンソンがついにシュトロハイムに首を言い渡した。
私ならば御することができるだろう。然し、これは完全な見当違いであったのだ。まぁ、そもそもスワンソンも相当のタマであり、『HUNTER×HUNTER』におけるクロロとかだとして、然し、シュトロハイムは護衛軍のようなものだったのだ。
スワンソンはこの未完成のフィルムを一時放置し、暫くしてから約6分間のフッテージを加えて、スワンソンエンディングという、打ち切り漫画的な終わりをつけてこの映画を完成させた。
今、ネットで転がっているのはスワンソンエンディングでもなければ、基本的には70分ほどの未完成ヨーロッパ編であり、紀伊国屋のDVDにはさらに40分ほど、写真と未公開シーンをツギハギさせて完結させた、ゼノギアスディスク2的版が収録されている。
それはアフリカ編が20分近く入っていて、意外に見応えがある。
映画、というものはあまりにも多くの人間が関わるため、自分を貫こうと思えば、魂を鬼にするしかない。または、初めから鈍感であるか。
それぞれの視点があり、監督には監督の、プロデューサーにはプロデューサーの、演者には演者の、技術者には技術者の、様々な言い分がぶつかり合うわけだ。
『クイーン・ケリー』はシュトロハイムの監督人生にある種トドメの一撃となったわけだが、然し、まぁ、仮に未完だとしても、自ら屈せずに自らの藝術を押し出したからこそ、100年近く経つ今もより美しく発光しているのだろう。