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みんな、無能の人

『無能の人』はつげ義春の漫画であり、連作で、全6話の構成を取っている。

『無能の人』の主人公の「私」は第1話の『石を売る』で石屋になる。
拾った石を売るのである。まず、通常の思考回路では何を考えているのかわからないが、無論、この主人公の妻も同様で、「何考えてんの。」と言った感じでまともにとりあわず、子供には「父ちゃんは虫けら」だと言っている。

石というものは、珍しい好物や形、霊験あらたかなものは実際に高額で取引されている。嘘だと思うなら、ヤフオクを見るなり、なんでも鑑定団を観るがよろしい。無論、そのような高値で売買される石というのは珍物であり、基本はゴミである。

今作には、主人公がデパートで行われる石のオークションに出品してみる話があるが、その伝手となった石雲先生の石に関する講釈が面白い。
石には、数個の石で世界を表す盆石、そして一つの石の中に世界を観る水石があり、水石は4つのジャンルが有り、①自然の景色を見立てる山水景石、②模様などを愛でる紋様石、③色彩で美しさを観る『色彩石』、そして④形で動物や物などを見出す形象石、があるのだと言う。
その形象石の見本で出されるのが、まぁ女性器にしか見えない石で、これはシモネタだが、先生の奥さんがそこに霧吹きをかけるシーンは可笑しい。
そして、石のオークションは、まぁ完全に失敗し、その後中古カメラの売買などをする話や、鳥屋の話などが挟まれる。

基本的には全て実体験から産まれた話を漫画にしており、どう脚色しているかが腕の見せどころだが、この『無能の人』にはつげ義春氏の思想が根底に流れている。石、貧乏旅、カメラ、古書……。

妻は常に旦那に「漫画描いてよぉ…。」と懇願するが、もちろん、漫画は描かない。
これこそが真の『描かない漫画家』である。

最終話の『蒸発』は、つげ義春氏の悲願に思えるが、氏曰く、蒸発するのは難しいのだという。なにせ、本人以外は蒸発したと思っても、本人としては別に変わらずにいるので、変な感じになるのだという。

蒸発願望、というのはある程度の人間、特に男性は持っているものではないか。
この世の縛鎖から解き放たれて、誰もが自分を識らない街に行くのである。然し、結局新天地にも人間関係はあるため、世捨て、というのは大変に難行である。
つげ義春は乞食に憧れているようなことを万度書いているが、同様に、乞食とまではいかずとも、世捨て人を目指して挫折して成功した作家がいる。

それは車谷長吉だが、彼はウルトラにインテリであり、将来を嘱望されていて、小説家としても大成する可能性を編集者からも見出されていたが、途中で挫折して雲水になろうとして失敗し、料亭で働いていた。
『贋世捨人』に雲水になろうとして、大徳寺にいる友人を訪ねて、それとなく坊主の生活を聞いてみると、とんでもなく大変なことがわかり逃げ出してしまう。

今作『無能の人』の最終話『蒸発』では、井上井月という江戸時代の俳人の話が語られるが、この井上井月も非常に不思議で謎の多い人物であり、世捨て人的な、乞食的な日々をしながら作品を詠んでいた。
『蒸発』に主人公の友人の古書店主の話が語られているが、彼には現実感がなく、実在感が薄い。彼が、井上井月の全集を主人公に貸すのである。


実在感が薄い、というのは、この世界において、存在そのものが希薄、ということであり、存在理由そのものの問題に関わってくる。
基本的に、この世界で出世しようという人間は馬鹿であり、愚劣であることは紛れもない事実であり、それは善悪とは関係ないが、権力思考の人間というのは、まさに世界そのものであり(どれほどの人命をその思想で振り回すのだ)、縛鎖そのものである。それが作り出すサークルがまた、相互監視の重たい世界を形作っている。

そのようなこととは関係なく、糞まみれで死んだという井月は、私には聖人に思えてならない。聖人もまた馬鹿であるが、然し、愚劣ではない。

自分は役に立たない、という感覚は大事である。自己肯定感、というのはこの世界において生きるための鎧としては必要だが、謙虚さ、奥ゆかしさがなければ人間として真っ当ではない。それがないことが、人を死に送り出す長ーい道を作り出す要因になりえる。

この世から消えたい、辛い、死にたい、という思いと、蒸発とは、実は完全に正反対のベクトルであり、蒸発はどちらかというと、生存に対しての凄まじい執念を感じられる。逃げるは恥だが役に立つ、って感じ。
然し、心に少しばかりの奥ゆかしさが置かれているのである。

車谷長吉は直木賞を受賞して、つげ義春は芸術院会員になったが、井上井月は糞まみれで死んだ。

井上井月は後世で名前が残ったが、ほとんどの人は消えていく。名前など残らない。でもそれでいいのだと思う。




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