禽獣と全集と、そして女性の綴方
『禽獣』は川端康成の初期作品で、非常に重要な作品として論考に挙げられることが多い。
『禽獣』は初版本が野田書房から発売されていて、これは私も以前欲しかったが、50,000円〜100,000円くらい、安くても20,000円とか30,000円とかするので、終ぞ買うことはなかった。
『禽獣』は川端康成が30代前半の頃の作品だが、彼の動物娯楽に関しての話で、鳥類、犬猫の類を飼うサイコパス主人公の話である。
まぁ、本人のことなのだが、鳥類を愛でる割には、その死の扱いが酷く大雑把で、愛情を真から注いでいるとは思えない。
対象の造形や、そこから視える清らかなる美しいものを愛でるのが川端作品のパターンだが、実際にその存在そのものの人格であったり、尊厳に対して愛情を注ぐことは一切なく、どこまでも表層的であり、それに対して自身も理解していることが川端の恐ろしい所である。
けれども、彼はこの作品の主人公は自分ではない、何よりも、この小説は私の嫌悪から出発しているとまで言っているが、だからこそ、自分なのではないか。
川端の掌編小説集である、『掌の小説』(たなごころとも読む)にも、彼の動物愛を書いた作品があって、『愛犬安産』という、愛犬のワイヤー・フォックス・テリアの二度目のお産に関しての話で、実体験をそのまま書いているので、非常にリアリティがある。
子犬の小さい掌や口は、純血な血の色に幼く健やかだ。という、いつもの川端文章がここでも子犬の美しさを見事に書いている。
全集には普通の文庫には収められていない、愛犬に関しての随筆がたくさんあって、『犬』や『犬と鳥』、『愛犬家、非愛犬家』、『私の犬』、『愛犬家心得』、『わが犬の記』など、どんだけ犬や鳥が好きやねん…と思うことしきりである。
川端には好きなものが3つあり、
①美少女(野生の少女とお嬢様型聖少女)
②禽獣の類
③古美術
である。
それから、女の人の書いた文章、それも市井の人々の文章が好きである。
全集には、川端康成の大好きで、自身が審査員をしていた雑誌の綴方(今で言う作文)コンテストに関しての文章が腐るほど載っている。彼にも谷崎潤一郎のように『文章読本』があるが、小説の書き方を勉強したい方は、この新潮版の全集の後半、30巻以降の綴方に関する文章や文芸時評などを読むことを強くお勧めする。
金言に溢れており、目から鱗の言葉の羅列である。大変に勉強になる。
川端は、小説には小説の書き方があって、綴方(素人)には素人の書き方がある、と言っている。綴方で重要なのは、見たものを正確に捉えることだという。それを最適に伝わるように書けば、心を動かす文章に成り得る。
川端は仕事ではなく、ほぼ趣味で女性の文章を読む変態であり、それが功を奏して、見事な真の意味での文章読本になっている(どこかの出版社さんは、この綴方教室を集めて文庫で出したらええのになぁと思う)。
『少年』にまつわる文章でも書いたが、基本的には、前述の『禽獣』を始めとした犬鳥大好き〜な川端も、川端ノベルティックユニバース(KNU)を構成する一つであり、全てを読まなければ、川端康成を理解するのは難しい。全てを読み、かつ、同好の士とも呼べる、先達の川端大好き人間たちの論考類も併読し、そうして川端康成の菊門がようやく開かれるのである。
『禽獣』のラストを飾る末尾の言葉、「生まれて初めて化粧したる顔、花嫁のごとし」は、一六歳で亡くなった山川彌千枝の母の日記の言葉である。彼女の遺稿集『薔薇は生きてる』を、川端は死ぬほど愛していて、めちゃくちゃ大事にしていた。乙女心が綴られた小説、それも夭逝の聖少女の文章は、前述した綴方を愛する思いと同様で、かつそれの上をいくものだったのだろうか。
エンタメ小説とは、慰安と商売のための作品であり、それ単独で完結した緻密に組み上げられたものであるが、純文学とは、一つの作品では完結しない。いや、しているのだが、明確には作者は同じモティーフを延々と描く。これは、絵画も小説も映画も、純粋な作家性を保持しているものは同じである。
川端の作品も、時代時代でモティーフが異なるが、然し、通底しているのは虚無、孤独、そしてそれを慰める清らかなるもの、であって、それは美少女であることが多い。絶筆作品に、若い娘と心中したいと書く変態であるから。時々、美術品や動物へと移行するが、基本的にはやっぱり美少女である。
美しい少女の心を綴った日記こそが、ノーベル文学賞を獲った作家の心を打つわけであるから、文学とはやはり素直な心を書くものなのであろう。
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