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なつかしい未来、なつかしい過去、なつかしい今

今度、『九龍ジェネリックロマンス』がアニメ化・映画化されるらしい。2025年である。

九龍城砦、と、いえば、『クーロンズ・ゲート』、であり、『GetBackers−奪還屋−』であり、『シェンムーⅡ』である。

いや、九龍城のDNAは創作物にはそこかしこに溢れているので、『ゴースト・イン・ザ・シェル/攻殻機動隊』であったり、『ブレードランナー』であったり、『FINAL FANTASYⅦ』だったり、『ニューロマンサー』であったり、サイバーパンク、世紀末の電脳とカオス連なる東洋的な、ああいう世界、ああ、九龍城。

『恋する惑星』は重慶大厦、これはもう、絶対に泊まりたいところだが、然し、今もあのムードはあるのだろうか。

80年代〜90年代が持つ末期の空気感、あの、インターネッツが極めて電脳的だった時、子供の私は、友人の家のパソコンでネットに触らせてもらっていたが、今とは比べ物にならないほど画像表示など遅く、ゆっくりと徐々に出てくる感じ。それは、今とは比べ物にならないほど拙いけれども、蠱惑的な魅力に溢れていた。どこか、特別な世界の空気を纏っていたのだ。
まぁ、九龍城に関しては、時々は語りたい。住みたいが、然し、住みたくはない場所である。なにせ不潔だというから。そもそも、治安も悪いのだという。
九龍城に住んでいた日本人もいたらしい。インタビューを読んだが、忘れてしまった。まだこの電脳空間に残されているだろう。

やはり、どうしても、ゲームや映画や小説、伝聞のせいで、幻想の九龍城への憧れが強い。幻想が先に産まれるのか、それとも、現実により幻想が産まれるのか。汎ゆる創作物は、現実に即している。だから、きっと、現実が幻想の母なのだろう。その幻想が育ち、今度は現実へと侵食していく。これもまた、概念の親子関係だ。
文化藝術、それらは全て、現実を依り代として育っていき、相互に関係を持つ。決して独立していない。
だからこそ、独立を志すことこそ、藝術家の目指すところではあるのだろうが……。
舞踏家の大野一雄の言葉に、「おまえの踊りが今認められなくたって、千年万年経って誰か一人でもいいから、認めることがあるとすれば、それは成立する。しかし、永久に誰とも関係のない踊りはだめだ。」と、あるが、独立を目指しても、最期には誰かに繋がることで、藝術に成り得るのか……。

『九龍ジェネリックロマンス』で、九龍はなつかしさ、そして懐かしさとは恋、だという事を語っていたが、まぁ、懐かしさこそが藝術の根源であり、求めるところであることは間違いない。懐かしさとは胸が詰まることであり、懐かしさとはもう二度と手に入らないことであり、懐かしさとはデジャ・ブであり、懐かしさとは、今この時のことである。
なつかしさは、常に、唐突に胸に去来する。不思議と、なつかしさは、未来を思っていてもやってくる。なつかしさは、今このとき。



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


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