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俺、本当は他人にどう思われてるか気になって仕方ないんだ

『ファイナルファンタジー』シリーズのシナリオで一番出来がいいのは『FFⅧ』である。これは、どう考えてもそうなのである。
然し、『FFⅧ』は世間一般では叩かれている。哀しいが、しょうがない。

『FFⅧ』のストーリーラインは、少年傭兵部隊であるSEEDに属する主人公スコールが魔女を倒すまでの物語、である。
魔女はこの世界では力の象徴であり、恐怖の存在でもある(そして、それは誤解でもある)。
ここに、運命の少女リノアとの出会いと恋、仲間たちとの友情が描かれる。

『FF』は基本的にシナリオは『FFⅩ』までは好きである。『Ⅻ』は途中で空中分解し、『XIII』は最初から語ることを放棄し、『XV』は薄っぺらな友情が描かれる。
『Ⅻ』以降、『FF』は延期地獄に陥っているが、ハード性能の向上に伴い開発スタッフの増加や開発機関の延長以前に、そもそもがディレクター降板や当初予定していたサーガ(ファブラノヴァクリスタルス)の破綻、はては作品自体がタイトルを伴いチェンジするという、どう考えても紆余曲折あり過ぎの難産が多すぎて、これは間違いなくシナリオに悪影響を与えていると思われる。
『Ⅻ』は公式発表から2年5ヶ月、『XIII』は2年7ヶ月、『ヴェルサス』こと『XV』は10年6ヶ月である。『ヴェルサス』が発表されたころ、『HUNTER×HUNTER』では着々と王討伐へ準備が進んでいた(24巻)、そして、『XV』が発売された頃、クロロとヒソカは闘い、敗けたヒソカによる殺戮のパレードが始まろうとしていたのである(34巻)……、あれ、そんなに進んでいない…。

『FFⅧ』とは何か、と簡単に言えば、思春期の葛藤である。
この話は、スコールが初恋(初恋はエルオーネ?)をして、少しだけ変わる話である。
そして、この話は全世界のオタク(然し、自分は有能であり、内心カッコいいとすら自己を美化している)の夢物語でもあるのだ。
なにせ、スコールはニヒルな態度を取ってはいるが、嫌われることはなく、寧ろ皆から一目置かれている。そして、親父は一国の大統領である。
一部では嫌われているリノアだが美人ではあるし、アンジェロもかわいい。そして、魔女を倒すという、ファンタジーな宿命まで背負っている(その上、伝説のSEEDなのか……という台詞まで吐かれる)。
完全に厨二病者の妄想を具現化しているのが『FINAL FANTASYⅧ』であり、野島一成シナリオはいつも中学生、或いは高校生のツボをよーく心得ている。

然し、物語というのはアマチュアだろうが、ノーベル文学賞作家だろうが、俺の書いた話という、恥の開陳であるのだからそういうものである。

『FFⅧ』のいいところは、きちんとダサい俺、までをも総括して見せるところである。
「俺、本当は他人にどう思われているのか気になって仕方ないんだ」とは後半のスコールの独白だが、スコールは初期から延々と独り言を言っていて、大抵は他人へのダメ出しやツッコミだが、基本的には完全に陰キャの側である。そして件のこの台詞。気になる女の子が意識を失っているとき、ついに出たこの台詞。
スコールにはこう言ってあげたい。「そんなん、みんなそうやで。」

FFⅧはつまるところ、ここがクライマックスである。ここはしんみりとした音楽が流れているが、美しい景色と相まって素晴らしいシーンである。
前半は、年上の女性の愚痴につきあわされて、ついつい暴言を吐いちゃう男だが、本当は弱く、優しい男なのである。それは、思春の頃には、誰もそうなのである。
彼は、まさに壁(意識を失っているリノア)に話し続ける。自分がどういう人間なのか。

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他人、とは物語であり鏡である。これを真正面から見ること、これが本当の冒険であり、魔女を倒すという言葉の意味すらも、その当事者たちの思いを見つめることで変容していく。敵は敵であっても人である。壁ではない。

また、もう1人の主役といっても過言ではないアーヴァイン・キニアスも最高に素晴らしい虚勢を張る人物であり、彼はパーティキャラ全員が失っているある記憶を巡り、1人葛藤し、任務をこなすことに専念する。

アーヴァインは物語の後半で殻が破れて、本当の内面が見えてくる。これは、今作の人物では他に学園長のシドや、乱暴者のサイファー・アルマシー、その仲間の風神などもそうで、シドはもうおっさんだが、基本的にはティーンエイジャーの虚勢と他人の視線への恐怖を描いている。
彼らは一面の存在ではなく、多面を持つ、複雑な心をもつ少年少女なのである。
少年少女が美しいのは、その力強さ、真っ直ぐさの裏側に、歪さや恐怖心、そして人への健気さが揺らめいているからであって、『FFⅧ』はその少年少女の葛藤を描いた作品なのである。

彼らの倒すべき魔女アルティミシアは、ラストダンジョンであるアルティミシア城(未だに最高のラストダンジョンであることに変わりはない)の玉座に座して待っているが、この御伽の城が最後の闘いの場所であることは、少年少女の御伽噺の終わりを告げる役割も担っている。

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恋愛、というのは今作のテーマだが、アルティマニアのインタビューでも語られていた通り、彼らは『本当の愛』の3分の1までしか進んでいないという。恋愛ならばそうだろうし、それ以下かもしれない。

だが、本当の愛、とは常に傍らにあるもので、それに気付いた刹那だけ感じるもので、それは、幼い頃から大人になっても、ずっとあるものなのだ。
愛を感じてほしい、というキャッチコピーは、恋の愛ではなく、人の愛である。

私が『FFⅧ』を一番愛しているのは、彼らがたまらなく好きだからである。この不器用なパーティーメンバーたちに、非常に共感を覚える。
なぜなら、私もまた、他人にどう思われているのか、気になって仕方なかった少年だったからだ。
少年の頃に、このゲームに触れられたことは、幸福の一つ。

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