小説のレイヤー
小説にはレイヤーというものが存在する。
つまりは、文章藝術、或いは映像藝術などにおいて、物語が語られる時、
それを表層通り、額面通り受け取るのは稚拙な読み方であるということである。
大衆小説、通俗小説、というものは基本的にはレイヤーは少ない。それは、知識の要求や読み解きがノイズになるからだ。なるべくわかりやすく、最大公約数がわかるように、つまりはシンプルでかつ示唆に富まない。
小説とは、基軸となるストーリーが置かれて、そこに登場人物の抱える問題や関係性、状況などからテーマを浮かび上がらせて、時代性や専門性でその幅を広げていく。特に、感情を何かに仮託して描いたり比喩として花鳥風月を使うのがよくある手法で、とにかく、今挙げたようなものを他の何かで代替して描くことが多い。
大抵はここまでで終わるのだが、けれども、ここに更に文学性であったり芸術性を加味するために、様々な情報を入れ込み更にレイヤーを増していくと、深みや厚みが増して、作品は一層に醸成されて格調が高くなるが、
基本的にはここからは一般読者はあまり気付いていない階層になってくる。
この階層(文学作品からの引用、専門性のある情報を引用し、それで比喩表現をする)などは、インテリ層には受けるが、気付かれずに素通りされて、大抵の人には意味わからん、となることが多い。
さらに深い階層を敷くとなると、物、の持つ意味や時代性などにテーマを散逸させて、道具立てで唸らせることが多いが、これはほぼ九割の読者は気付かないレヴェルで、私も無論気付かない。
川端康成の掌編小説に『名月の病』という伊豆ものの傑作がある。
これは幻の作品で、新発見の原稿で2018年の『新潮』に掲載されたが、原稿用紙3枚とか4枚くらいの掌編である。然し、今作は川端康成の魅力が余すところ無く詰め込まれた傑作であり、三本、川端康成の作品を選べと言われたら私はこれを推す(後は『たんぽぽ』と『東京の人』(※『東京の人』は代作だそうなので、正確には川端康成ではないそうです)だね。
ここからは、人の褌で相撲を取らせて頂き恐縮だが、この新潮にはこの作品の素晴らしい論考が載っていて、読んでいて成程と膝を打つばかりである。私は、これでこの『名月の病』の表面上以外の深みを識り、作品に対してより深い理解を得られた。
評論家、というのは、よく叩かれることが多いが、プロの評論家は素晴らしい知識と読み解きの技術、文章力を持っており、作者本人すら気付かないような深層的な作品理解をする方も多い。
要は、感想屋と評論家は全く別物で、よく叩かれるのは感想屋である。感想屋の文章は、これもまたレイヤーがないため、例えば映画ならば、映像がキレイだった。演技が巧すぎる。脚本の伏線回収に鳥肌、的な感じであり、とにかく面白かったんだな、以外のものはそこには存在してない。本来は映像がキレイなだけではなく、物語のテーマのためにこのショットはこういう意図で撮られており、この画角にしたのはこういう演出意図がある、的な(これも安いが)、解説をしなければならないし、それすらも素人芸で、様々なディティールを総括して、監督の演出プランの妙を他の物などと比較しながら語りそれにより作品本来の格を押し上げるのが仕事であり、乃至は、作品本来の価値を再認識させることが仕事なのである。
さて、今作『名月の病』は中国の『嫦娥奔月』と蛾、月、山猫などキーワードを散りばめていて、それぞれのマテリアルに意味をもたせて作品世界に膨らみをもたせている、ばかりではなく、川端康成の研ぎ澄まされた美しい日本語の並びに加えて、新感覚的な表現、抒情的な描写に、伊豆というYASUNARI五大聖地(後は鎌倉と浅草と新潟と京都)の一つを舞台に据えて、まさにこれぞ、THE・YASUNARI という作品に仕上がっている。
ここでは彼の大好きな野生の娘が登場するが、その使い方も秀逸である。
過不足がない。この傑作は文庫に収まられているのか識らないが、恐らくは新潮だけでしか読めないだろう。
何百ページの大著、というものの良さはあるものだ。それでしか書けない人間関係、展開の妙、重厚性はあるにはある。川端康成が愛したドストエフスキーだって、糞長いが、長ければ良いわけでもないのである。
ドストエフスキーは文豪だが、文豪じゃないのにやたらに長い、しょうもない乳繰り合いを書いて稿料を稼ぐ人間もいる。そんなものよりも、如何に、文章にレイヤーを、仕掛けを、そしてそこから思想の海を構築するか、それが重要である。
3枚の原稿が1000枚に勝ることはいくらでもある。だから、書き手は勉強しなければならない。
推敲とはそのためにある、という一面もある。削ぎ落としていく。わずか二行に宇宙を見せる。それの最たるものが短歌であり俳句である。
短いものがいい、と言っているわけではない(個人的には短いほうが好きー)。小説らしくみせるために文章を太らせるな、ということだ。
考えられた文章か、考えていないでただ水増しに羅列しただけか、それは読み手にはすぐにわかる。
世の中に落ちている様々な物、それらには全て物語があり、それらを識ることで初めて言葉は意味を持ち、書かれる文章は生を持ち始める。
そして、それは小説というものになるのだ。