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【小説】青年悲劇①

その花ざかりの森にあって、その人は一等美しい花だった。春と形容しても差し支えない。

春は夏に犯されて、夏は秋に殺される。そんな言葉が耳に入って、私はそのまま言葉を引き継ぐように、秋は一人で老いぼれて、冬が皆を埋める、そう諳んじた。
「野坂昭如ですか。随分古い歌ですね。」
私は、ソファに座る青年に声をかけた。歳は二十歳過ぎほどだろうか、白皙という言葉が頭に浮かんだ。彼は微笑んで、
「花ざかりの森です。貴方もご存知ですか。昭和歌謡が好きなんです。」
向かい合った革張りのソファに腰を下ろすと、私は頷いた。
「三島のものは読んでいません。『憂国』は読みましたよ。確かー、新潮文庫で。」
「では、『詩を書く少年』は?」
「ああ、それは読みました。三島の自伝的な話でしょう。詩人は恋などしない。」
彼は頷いて、
「詩人と小説家の違いですね。小説家は恋が多いでしょう。詩人はナルシストですから。」
そういう彼の指先は作り物のように細く靭やかで、スーツの胸元から取り出した煙草を今どき珍しい紙巻だった。
「吸いますか?」
「酒も煙草もやらんのですよ。」
「珍しいですね。作家先生はどちらかたしなんでいるイメージです。」
「それは昭和のイメージだなぁ。今どきは体に悪い物、散財の種になるだけの物は皆やりませんよ。」
酒も、煙草も、親父を思い出す。それが不快だった。最近、鏡を見ると、親父が私を見返していることが多い。歳を重ねれば重ねるほど、父親から逃れることが出来ない。彼は煙を吐き出しながら、眼の前で明滅めいめつする灯りをじっと見つめている。睫毛まつげが心做しか濡れているようで、そうして、色素が薄いから、異国の匂いがした。
京都北山の鴨川沿いの邸宅だった。塀が高く、傍から見るとどこかの富豪の屋敷にも見えるが、会員制の社交クラブとして使われている。オーナーには会ったことはないが、東京に住んでいて、ここにはほとんど来ないのだという。
「ここの庭は春になると花が満開になります。桜だけじゃなく。だから、花ざかりの森、森っていうと、少しオーバーだけど、まぁ、庭かな、花ざかりの庭になります。」
「何度もここに来ているの?」
彼は頷いて、そうして、目をやると、隣室にいる青年たちは、皆一様に、大理石から切り出された彫刻めいた顔をしていた。ただ、華奢きゃしゃな肉体が、彼らを年相応に見せている。何人いるのかわからなかった。全員が全員、落ち着いてみえて、内心浮足立っているのは自分だけではないかと思える。
「仕事は仕事です。でも、おもてなしだから、僕らが緊張していては御客様が困るでしょう。」
「ホストみたいなものかな。だから酒も煙草もなんでもござれなのかな。」
「頼まれれば薬でも。」
薬はいるかと、担当編集に聞かれた。彼はこういう遊び場は詳しくて、自身も大御所に連れられて来たのだという。社会勉強だと思ってください。彼はそう言ったが、然し、そうして私を連れてきた彼は屋敷に来るなりいの一番に部屋を飛び出して、背の高い白髪の青年と消えてしまった。私は、少しでも緊張を紛らわせるために、天を仰いで、部屋を睥睨へいげいした。流石に鹿の首などは飾られてはいないが、どこか山岳の別荘を思わせる部屋で、遠くでヴァイオリンを弾いている青年が座るのは、革張りの河馬かばの形をした椅子だった。そうして、様々な調度品が並ぶ中、私は本棚に並ぶ古書の山を目敏く見つけて、立ち上がってそれを見つめる。どれも読んだことのある本ばかりだった。三島、谷崎、川端、佐藤春夫、芥川、様々な作家、それらを見ているが、然し、視線は彼を追っている。
「好きな作家がありますか?」
彼は、私の視線に気付いたように立ち上がると、私の耳元まで唇を近づけた。吐息がかかるのにドギマギしていると、彼は目を細めて、
「僕は色々なものが好きでね。本は粗方読んでますよ。有名な作家ならね。」
「へぇ。好きな作家は?」
私の問に、彼は少し間を開けて、
「コルヴォー男爵は御存知ですか?」
聞いたことのない名前にかぶりを振ると、
「19世紀、イギリスの作家です。20世紀半ばまで生きていましたが、中々際物きわものでね、男色家で、それでいて神父になりたかった。彼は後年はヴェネチアで客死かくしした。それも、貧困の中でね。」
「作家に相応しい最後だ。」
「いかにも。でも先生はお金持ちでしょう?」
「まさか。しがない、本当にしがない作家だ。印税でなんとかそこらのサラリーマンと同程度だ。」
「でも作家、というブランドは魅力的でしょう。人の見る目も変わるから。」
「それは他人の芝生は青いのと一緒、内情を識らんから言えることさ。誰でも人生は苦悩の海を航海しているわけだからね。」
彼は頷いて、そうして、1冊本を取り出して、それをパラパラと捲る。事に至るまでの間が、私にはどうしても恐ろしかった。いっその事、一人で自涜に耽る方が、そのような恐怖は介在しない。私は明確に、人間を恐れていて、かつ、欲していた。
「コルヴォー男爵はー」
彼の声が部屋に響いた。
「本当には男爵ではなかった。彼は、彼を慕う少年たちを何人か犯しています。それがしたためられた書簡類が、日本で書籍になっていますね。こういう商売をしている奴は、何も考えずに日々を送るヤツ、それから、自分の罪、生き方に向き合うヤツ、どちらかがいます。後者は少ないけれど。」
「君は後者?」
「そうありたいけれど。快楽の前には頭クルクルパーですよ。いつだって後悔するのは酒飲んで、女を買って、金を使い切った後です。」
「前者と後者を行き来しているわけだな。」
私の言葉に彼は微笑んで、
「ええ。来る日も来る日も、この爛れた生活から抜け出したいと、そう思っています。」
「君は女が好きなのかい?」
「バイセクシャルです。どちらかと言うと男のほうが好きかな。気持ちが理解出来るし、身体もわかってるから。」
私は何度か頷いた。会話を誘導して、巧みに私を釣り上げようとしている。けれども、私は、自分が思う以上に意固地だった。客観視をしていた。彼は煙草を吹かしながらじっと私を観察している。彼にはビジネスであって、私は客でしか無い。客として扱われる、客としてその場限りの礼儀を尽くされることが私には苦痛だった。それは如何なる場所でも。この場の金銭は編集者が持ってくれているのだろうと思えても、厚顔な態度で迫る程、私の自尊心は脆弱ではなかったが、然し、けれども、私は、いっその事、彼から手を出してくれないかと、視線を受け止めることしか出来ない。私も彼も、じっと相対するままに暫くのときが過ぎて、彼は急に吹き出して、
「マーロン・ブランドとマリア・シュナイダーみたいだ。」
笑うと真っ白な歯が溢れて、この世にこれほど美しい青年がいることに驚きを覚える。彼は、金が必要なのだろうか?このような仕事、汚れた仕事をこなす彼は、女衒のような編集者やこの館のオーナーや関係者に、何か弱みでも握られているのではないか。
「別にね、先生が手を出そうとも、出さなくとも、金は出るんですよ。」
先程から、眼を逸らすことはない。じっと見つめるその眼は、ヘルムート・バーガーを思わせる。
「それならば、遊んだほうが得だと思うけど、先生はそうは思わないの?」
彼は立ち上がり、静かなこの部屋に鳴るガスストーヴの音を破るように、レコードをかける。バッハのフーガ、ハ長調BWV946、その曲のせいで、部屋そのものが巨大な檻のように思えて、私は猛禽と相対する雛鳥の心境だった。彼は、いつでも私を獲って食えるのだ。ただ、客人だから手を出さないだけだ。
「先生は文学がお好きでしたね?」
「ああ、うん。それなりに。世間一般よりは詳しいと思っているよ。」
「じゃあこうしませんか?ここに来られる時に、僕と本の話をする。読書会でも構いません。朗読会でも。せっかく来られても肌の触れ合いもなければ淋しいでしょう。それなら、少しばかりは先生の心がはだけるもので時間を埋めるのは。」
「私はもう二度とここには来ないかもしれませんよ。」
私の言葉に彼は鼻で笑うかのように眼を細めて、
「先生は世辞が嫌いなんでしょう。だから、そうだな、僕の識らない本を教えて下さい。僕の本当の先生になってください。そういう理由があれば、先生はここに通います。」
「通わせてどうしたい?」
窓から月明かりが差し込んで、彼の手先が青白く発光した。骨が透けているかのようだ。彼は目線を逸らすことなく、一層に鋭く、
「パトロンになって欲しいんです。」

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