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書き出しに関して

書き出しに悩むことは多い。
名作は、書き出しが素晴らしいのである。

『雪国』
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

『伊豆の踊り子』
道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた。

『春琴抄』
春琴、ほんとうの名は鵙屋琴、大阪道修町の薬種商の生れで没年は明治十九年十月十四日、墓は市内下寺町の浄土宗の某所にある。

小説を書く上で書き出しというものは読者を誘う窓であるから、魅力的なものを書こうと苦心されている方も多いと思う。
でも、とにかく書き出しというものを名文にしようと囚われずに、気にせずに書くというのは、上に書かれた名文の作者も識るところではないだろうか。
特に、『雪国』などは、初出と現在の書き出しはほぼ全文が違う。
あれは、何十年に渡る推敲の末に産まれたものである。

初めから完璧を目指すのは、あまり良い傾向とは言えず、よく言われるように、完成させることが最大の要であって(私は別に完成せずとも美しければOKだと思うけれども)、いくらでも推敲すればいいだけの話である。
村上春樹なんて推敲が大好きだと公言している。然し、推敲は大変である。体力を使うし、いうなれば、ある意味終わりのないものでもあるからだ。心が折れそうになる。
気分としてはこんな感じである。

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然し、ラフカディオ・ハーンこと小泉八雲の語るところ、書き出しには最も有効な方法があって、それは『書き出していくうちに物語のテーマを見つけ出し、そうして興に乗った箇所やこれぞという名文が産まれた箇所を書き出しとし、今までの分を全て棄てる』ということである。

これが出来る人はなかなかいないだろう。それこそ、数十枚と書いてきたものを没にするのである。然し、これは真理であって、書きたいものと向かい合い、直していくうちに、その真髄にたどり着くわけである。その物語に本当に出会うわけである。
であるからして、そこが始まりだというのは最もである。
読者は皆、この魔術に気付かないと小泉八雲は言う。
おそらくは、様々な名作にも、その過去からの物語があるのかもしれない。

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