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きみーの名は 藤原義江

今書いているものの資料で購入した『藤原義江』の本。
残念がら、期待した資料は掲載されていなかったが……。

藤原義江、と、言われても、誰?という人が多いだろうが、まぁ、大正時代〜昭和時代の大人気だったオペラ歌手だ。
1976年に77歳で亡くなっている。

父親がスコットランド人で、母親が日本人の芸者で、庶子である。
幼い頃に、父親に会いに行くように母から汽車の切符を渡されて、貿易商をしている父の仕事場に行き、そこで握手をしたあと、「サヨナラ」と言われて帰った日、その時の衝撃が大きかったと記されていた。

ハーフ顔であるが、完全にべらんめぇ口調であり、君、と呼ぶ時に、きみー、と語尾を伸ばすのだそうだ。
つまり、藤原義江が新海誠の作品名を言うときは、『きみーの名は』になるわけだ。


藤原義江ってマーロン・ブランドに似てるんだよね、若い頃から。

18歳の時に澤田正二郎と松井須磨子のトルストイの『復活』の演劇を観て心から感動、「俺には演劇しかねぇ……!」と、即澤田の元へ向かい、彼の立ち上げた新国劇に入団し、役者デビューを飾る。芸名は戸山英二郎。藤原義江は、女性と間違えられる名前が嫌だったのだ……。巡業で向かう先でも、『藤原義江嬢きたる!』とのぼりに書かれていていたりしたそうだ。

然し、新国劇では股旅物ばかりで、丁髷を結ってお侍になるばかりで、「俺のしたいことはこんなことじゃねぇ……!」と、悶々。藤原義江はシェイクスピアの『ハムレット』を演じることを夢見ていたのだ……。

そんな藤原義江、ローシー歌劇団で田谷力三と安藤文子の『コルネヴィーユの鐘』を観て猛烈に感動、「オペラは初めて観たが、俺にはこれしかないと思ったね。」と、巡業中の神戸で新国劇から遁走を図るというまさかの大罪を犯す。

そこからオペラ歌手になるのだが、歌唱力の田谷、顔だけの戸山、と、罵られて、それは譜面が読めないからだそうだが、苦しみの挙げ句、外国で修行してきたらいいんじゃないか?というアドバイスを受けて、あの、サヨナラと言われた親父に資金を出してもらうべく会いに行く。
そうすると、親父は喜んで彼を抱きしめて、資金を出してくれたそうだが、然し、その直後親父がまさかの急死!てんやわんやでなんとか外国へ修行に行けたそうである。

これらのエピソードは、今回買った本に掲載されている、藤原義江の息子と懇意にしていた妹尾河童のエッセイに掲載されていたのだが、その、妹尾河童、藤原義江歌劇団の舞台美術を半ば強引に2週間でやれ、と藤原義江に頼まれて、

「いや、俺グラフィックデザイナーだし、仕事が違うし。」
「まぁまぁ、オペラが好きなんだろ?絵が描けるチャンスじゃないか。それになぁ、チャンスっていうのはいつも藪から棒なんだよ!それを掴めるか否かで今後が変わるんじゃねぇのかい!?」

的な強引さで引き受けさせられ(しかも無償)、結果、舞台美術家デビューを果たす。

然し、本名妹尾肇を、ポスターで渾名の河童にして印刷、妹尾河童になっていたことに妹尾は衝撃を覚えて、

「ちょっとちょっと!俺の名前は肇だよ!河童は渾名だし!」
「きみー。きみーの名前なんて、僕も、その他の皆も誰も知らないし、いいじゃないか。俺なんて義江だぞ!河童なんて女に間違われることなんてないじゃないか!」

という、意味不明の言葉で芸名を改名させてしまう。

このエピソードを読み、私は、ジン・フリークスを思い出さずにおれない。

ゲームシステムのために人の名前を変えさせる男。

この妹尾河童氏のエッセイは無類の面白さだ。私は、これだけでこの本を買って良かったなぁと思っている。
写真もいっぱい、当時のパンフレットも載っていて、資料的価値も高いなぁ。

チャンスはいつも藪から棒。いい言葉だ。何がきっかけでその人の道が決まるかわからないものだ。そして、人が頼んでくる、というのは、大抵は困っている時なので、まぁ、仕事でも趣味でも、そういうのは率先して受けると次に繋がるものなのだ。
そもそも、人が頼んでくるときは、その人に適正があると判断しているので、客観的才能(よく言えばだが)を担保しての依頼であることが多いので、まぁ、嫌でもやってみると、チャンスが活きることになる。

藤原義江は帝国ホテルに25歳から77歳まで、ほぼ住んでいる状態で、晩年などは、ホテルの好意で無料で宿暮らしをしてたそうだ。
この本の中にも、帝国ホテルでコックたちに白トリュフを見せて、それで最高に美味しいスパゲティを作るシーンが登場する。帝国ホテルはフランス料理専門だったので、イタリアではこれが最高に美味い贅沢な食べ方なんだ、という、藤原義江の話に、本当かなぁ、と思いながらコックたちが作る。出来上がったものを本当に美味しそうに食べる藤原義江に感動する。
他にも、新鮮なトマトをふんだんに使ったポモドーロを注文、新鮮なオリーブオイルとニンニクを使うことがイタリア料理のコツだ、と指導しながら、完成したポモドーロをまた美味そうに食べる。これを先駆けとして、帝国ホテルでイタリア料理のパスタ類が提供されるようになったと語っていた。

帝国ホテルでは従業員の名前を全部覚えて、ニックネームで呼んだりしていたそうだ。


ホテル暮らしは、美味しい料理が食べられて、細やかなサーヴィスも受けられて、プライバシーも干渉されないから性に合うと言っていたそうだ。
そういえば、淀川長治先生もホテル暮らしだった。ANAインターコンチネンタルホテル東京の、しかも、ジュニアスイート。

藤原歌劇団は今年で90周年。
2025年1月には『ファルスタッフ』の公演があり、東京は無理だが、名古屋なら観に行けるかもしれない。


然し、東京公演は90周年特別チケットなるものがあり、シャンパンが付いてきたり、お食事券があったりと、やたら豪華である。
私は1960年代〜1970年代のアングラ舞台の匂いが大好きだが、1920年代〜1930年代の、こういうオペラや浅草のオペレッタの雰囲気も大好きだ。

でも、オペラはドレスコードがあるんだよなぁ……。



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