福永武彦『風土』と藝術の夏
お盆ももう終わり、そうすると、夏の終わりがいよいよ始まる。今年もあと少しである。そんな夏の始まりと終わりの小説が『風土』である。
『風土』は福永武彦の初長編小説である。
以下、普通にネタバレをする。
10年間をかけて書かれた大作で、堀辰雄に捧げられている。福永は堀辰雄と親しく、彼に憧れていた。
『風土』は、以前私が読んだ同人誌で、福永武彦本コレクターの方が大量に蒐めている記事を書いていて、『風土』にも様々なバージョンがあり、中でも、東京創元社刊行の『小説 風土』なる本が最高であり、この、小説、と冠に戴くことが、福永にとって最も大切なことであるから、これを取りたいのだと、そう言っていた。
福永武彦、と、いえば、池澤夏樹のお父さんであり、池澤春菜のお祖父ちゃんであるから、常に星馬豪を思い出す。
で、『風土』は堀辰雄に捧げられているだけあって、すごく『風立ちぬ』を思い出すのである。
新潮文庫に収められている『美しい村』は、バッハのフーガの構成を小説に持ち込んだ作品で、『風土』もまた、音楽が非常に重要な要素として登場する。それはベートーヴェンのピアノソナタ『月光』で、作中、この月光を重要なモティーフとして使うだけではなく、その構成までを紐解き、作中の流れや藝術感、人生観と重ねて見せる。
『風土』の内容としては、主人公である4人の男女、それぞれの立場から語られる人間感情の不思議、中でも、メインとなる画家の桂昌三の話が重要である。
全三部で、第一部が1939年の夏、第二部が1923年の夏をメインとした過去編、第三部が1939年の夏の終わり、を書いている。
第一部で、画家である桂昌三が三枝という家を訪ねてくるところから始まる。海辺の場所で、避暑地である。入道雲、青い空、ビーチパラソル、など、夏の美しい景色が綴られる。
桂は、幼い頃から絵描きを目指して生きてきて、学生時代は夢に燃えて、ポスター描きなどしながら糊口を凌ぎ、パリ行きに燃えていたが、然し夢を果たせなかった男である。
冒頭は、メイン四人のうちの二人、久邇と三枝道子という14、5歳の少年少女が登場し、どうやら、久邇君は病気療養でやってきた避暑地で出会った道子ちゃんが好きになり、その熱が、彼の愛するピアノへの情熱にも更に拍車をかけているようだ。そんな道子ちゃんは、絵を嗜んでいる。ちょうど思春期で、ママンである芳枝(34〜35歳くらい)に時々反発している。
そんなところに、桂が来るのである。彼は、何やら風来坊で、画家で、藝術家だが、何か虚無を抱えている。ママンの芳枝に、何か用があって訪ねてくる……。
この4人がメインであり、そこに芳枝の夫で道子の父親の三枝太郎、という、元官僚で画家に転身した、リア充野郎が登場するが、彼は1939年の時点では事故死している。パリで生活していた時に不倫したサラアという女性と車の事故で死んだのである。なので、芳枝は未亡人だ。未亡人になって既に10年経つ。
そこに来た桂は、昔の話を懐かしくして、然し、本心が見えず、話していると、いつも藝術の話にすり替わっていく……。そう、高畑勲の『おもひでぽろぽろ』のトシオのように……。
で、この桂は、芳枝と三枝太郎、他の仲間との楽しかった1923年の夏の思い出話をする。芳枝は、だんだんと、桂に対して愛情を傾けていく……。
一方、娘の道子は桂を意識し始めて、自意識が暴走していき、なんとも情けない恋愛中の久邇君は、道子さんが大好きだ〜、ああ、ちゅーしたい……でも、彼女、僕のことどう思ってるんだろう……ああ、ピアノ弾きたい……、という、そんなことばかりを考えている。
これが第一部で、そこから16年前の夏、1923年の夏、即ち、関東大震災が起きた年(『風立ちぬ』!)、が第二部になり、ここで、桂と芳枝の19歳〜20歳くらいの、青春の時代が描かれる。
ここでも、夏の景色はどこまでも牧歌的であり、美しい色彩が描かれるが、然し、このとき、桂は芳枝に恋をしており、その恋が終わる夏でもある。三枝と芳枝の愛のシーンを木陰で見てしまうのだ。この絶望の夏に、桂の生い立ちや少年時代の孤独なエピソードが挟み込まれる構成で、メイン軸の青年期を通して、桂の藝術観と現代の関係性がどう紡がれてしまったのを描き、そこに更なる回想を入れることで、桂の人間性を立ち上げている。
ここで面白いのは、第一部での桂は虚無の人になっていて、もう一度再生したい思いから芳枝に会いに来る。芳枝も同様に、夫を喪い懶惰な日々だったのが、桂との再会で再生しようする。然し、第二部の若かりし頃は桂がめちゃくちゃ芳枝を好きなのに、芳枝はそこまで興味なし、だが、第一部の中年期では、芳枝がなんとか桂に振り向いてもらいたい、とそのような逆転が起きている。
第三部は、いよいよこの四名の物語が一気に結末まで動き出すのだが、然し、まぁ、然し、恋物語、ではなく、まぁ、恋物語ではあるのだが、それ以上に、藝術とは何か、藝術家とは何か、という、その思想を、延々と、延々と、登場人物の会話で語っていく、その手法が重要なのである。
今回は、『意識の流れ』、という、まぁ、一時期流行った、あの、文学的な手法でもある、を使用し、とにかく延々と、この四人たちの『意識』を描いていく。
意識の流れ、と、いうと、川端康成の『水晶幻想』が思い出される。YASUNARIの小説が好きな人は、恐らくは福永の小説も好きだろう。
『水晶幻想』にはプレイボーイなる犬が登場するが、いいなぁ、プレイボーイっていう名前の犬、いいなぁ。どうでもいいが、画家のアラステアの犬の名前は『クリ◯リス』である。
『水晶幻想』の系譜は、『みづうみ』、『片腕』、『眠れる美女』、そして傑作『たんぽぽ』、乃至は『住吉連作』に引き継がれていると思うが、然し、やはりYASUNARIの若い頃の作品、例えば、『浅草紅団』など、ああいう、乱雑猥雑怪奇幻想の坩堝、これこそがYASUNARI的美学であり、日本の美はその一要素でしかない。ああ、またYASUNARIの話を……。
今作は、チャプターごとに主人公が変わるため、桂(35歳)、芳枝(35歳)、久邇(15歳)、道子(14歳)の、それぞれの今考えていること、意識、が描かれる。その、考えていることが延々と描かれて、それで物語もまた流れていくわけだ。
なので、桂は主人公のようなものだが、それぞれ4人の意識の流れは当然異なり、それを上手く描くことで彼らの人となりが立ち上がってくる。
桂は、喪われてしまった愛、藝術への情熱、それは取り戻せるのか、藝術家とはそもそも何か、あの16年前の夏に、全て終わったのではないか、という、そんなことばかり考えていて、芳枝はというと、なんで桂さんはまた来てくれたのかしら、桂さん、私のことが気になっているのかしら、まぁ、桂さん、そんな寂しいこと言わないで!桂さん、愛してます……!一緒にパリに行きましょう!もう一度青春を!、であり、道子は、あの桂さんって男、いい人だけど、なんか私を軽く扱ってムカつく、久邇さんって、本当に子供だわ、全然頼りにならないし夢見がちだし、なんであんなに幼いのかしら、あームカつく、ママンも、桂さんのこと意識しすぎでしょ!ムカつくー。あー、なんかムカつく!って感じであり、久邇は先程も書いたように、道子の気持ちだけ気になる(でも根は藝術家なので、桂の話に感銘や影響を受ける聡明さを持つ)。
この意識の流れ、徹底した意識の流れによる物語運びで、不思議な浮遊感を持たせており、他でも言及されているように、これはトーマス・マンの『魔の山』的な感覚で(ここでも『風立ちぬ』!)、今作でも、最終9割くらいのところで、第二次世界大戦が始まる。『魔の山』は第一次世界大戦だが。
戦争から魔術的な煌きが喪われてしまったという第一次世界大戦、それは1914年〜1918年、その5年後、1923年に関東大震災が起き、その時代に、桂は芳枝は青春を謳歌していた。然し、桂はそこで死んだも同然になり、再び相まみえる1939年、ここで再会した芳枝は、未だに乙女のようであり、 あの頃のままであり、絶望は経験していても、まだ、桂とパリに赴き、そこで幸福になるのだと、夢を見ている。これは、吉岡清十郎の言うところである、「処女のように暢気だな」、という言葉そのままであり、芳枝はどこまでも乙女で世間を理解していない。暗黒時代に突入していく世相を理解していない。
作中で、桂は芳枝と太郎との恋仲の進展を見て、不幸は知らないところで育っている、的なことを言っていて、最後には戦争に対して同一のフレーズを出す。
芳枝は、ラジオから流れるニュースを耳にしても、大丈夫、戦争はドイツとポーランドだけで終わる、フランスは、パリは大丈夫、私たちはパリで幸せになれる、そう思っている。
世界はきな臭くなっており、桂は何れ訪れる戦争への破局を感じており、ここでも、これら人間4人の意識の違いが、意識に流れを克明に描くことで浮かび上がる仕様になっている。
また、今作では、ベートーヴェンの『月光』の他もう一つ、重要なモティーフが登場する。それはゴーギャンであり、このゴーギャンの絵画が、作中重要な藝術へのテーマとして登場する。
桂はゴーギャンの絵に取り憑かれていて、それは、ゴーギャンがここではないどこか、ゴーギャンはタヒチへと向かい、彼の藝術を完成させるように、桂もまた、日本の洋画文化の稚さに焦っていて、ただメチエだけがあることに絶望している。巧くは描けるが、そこに心底からの美はないのだ。
だからこそ、桂はパリに行きたかった。ここではないどこか。けれど、彼はパリに行けなかった。そして、パリでの幸福な数年を過ごした芳枝に、パリは約束の地となって輝いている。
それこそが『風土』だ。タイトルの『風土』、というのは、これは、桂の言葉であり、その人その人の生きてきた異なる価値観、藝術的な価値観、である。そして、その生きてきた場所である。
なので、モンスーン型、牧場型、砂漠型など、まるで、念能力のように、パターンがあるのだと、桂は久邇に語る。
藝術の風土、に近しい概念、然し、これは、その場所そのものであるから少し異なるが、中上健次のトポスなどもそれに親しいのかもしれない。作家にはトポスがあり、中上健次には紀州の路地、大江健三郎は四国の森、YASUNARIはどこだろうか。伊豆、鎌倉、京都、浅草、新潟、然し、一番はやはり伊豆かも。
然し、トポスは神話の発生地であり、その辺りは一歩踏み込んだ場所の方が重要であり、やはり『風土』とは異なるか。
神話の生まれる場所がトポスであり、風土はどちらかというと、やはり、念能力の六傾倒に近いのかもしれない。
今作は藝術と時代性、そして、藝術と風土、そして、藝術と時間、を書いた作品であり、煌めくようなあの青春の夏、それが時間ともに風化していき、新しい人々がそれに取って代わり、また繰り返す、その無常がある。
青春よもう一度、そう、芳枝を抱いて、彼女の火照った肉体を見る桂は、そこにあの頃の息吹はなく、外には恐ろしい風が迫っている、そのような諦念を覚えるのである。
解説に、息子の池澤夏樹の文章がある。藝術家の作品を、藝術家の息子が紐解くことほどに価値のあるものはないだろう。
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