今は昔になりました
いくつになっても生まれて初めて経験することはたくさんある。
したことのないスポーツ。
読んだこともない小説。
吹かれたことのない風。
見たこともない空。
味わったことのない強い酒。
泳いだことのない海。
会ったことのない人。
感じたこともない暑さ。
聞いたことのない唄。
思ってもみなかった味。
着たことのない服。
いくつになっても新しいドアを開けることを恐れずにいようと思う。
初めて話すことがあるから、遠い異国に電話をかけます。
呪文のようにくり返す番号があの人。
ホテル・パシフィック メリディアン東京
今はなき、ホテルパシフィック東京の雑誌広告のコピーである。
私は古い雑誌では記事よりも広告が好きである。その時代、その時代の息吹が感じられるからだが、どうしてだろうか、やはり、自分の幼い頃、バブルの頃というのが、一番に郷愁を覚える。
私は、パシフィック東京なぞ、行ったこともない。然し、私は、きらびやかなネオンの灯りを横目に、このようなホテルで家族で過ごした記憶、のようなものがある。それは、本当には別のホテルだったかもしれないし、もしかして、テレビなどで観ていた光景が混じっているのかもしれない。
けれど、以前母と話していると、別のホテルではあるが、たしかに家族で行った、私の思い出と合致している光景を語ってくれていた。
ホテルパシフィック東京ではないが、その匂いをたたえた場所。子供には同じことかもしれない。少し酔っ払っていた母がとても綺麗だったのを覚えている。
例えば、『美味しんぼ』のエンディングで流れる夜景を背景にしたワイングラスの1シークエンス、私には、間違いなく私の一部として脈々と息づいている。
今は昔になりました、とは川端康成の絶筆である『隅田川』の最後の文言であるが、最終的には、人は思い出に向かうのである。
そして、今では昔となってしまったという、まさに今この時も、いつかは昔になるのである。
懐かしい、その思いは、私には卵の殻を全て剥いた先に顕れる、私自身のような気がする。
幼少時代、それを追い求めている。だんだん離れていくのに、心だけは近くなるその不思議な場所を。