谷崎潤一郎の映画『お遊さま』と甲斐庄楠音
Amazon primeで『お遊さま』を観る。
溝口健二監督の映画で、タニジュン、即ち谷崎潤一郎原作の映画である。
私は、この原作の『蘆刈』は素晴らしい出来だと思っていて、あの、谷崎流のつらつらつらつら長い文章が平仮名多めで書かれている。
私的には、『春琴抄』のプロトタイプだと思っている。『盲目物語』のように、あの、平仮名ばかりのうねうねうねうね続く文章、あの眠り薬の如し文体を私は愛しているが、大江健三郎もああいう感じで長いのだが、大江健三郎は意味不明な比喩や汗臭い小難しいワードを繰り出すため、心地よさというよりもボディーブローの如し重さで読み手の集中を奪う(まぁ、主に私のだが)。
この映画版は一度観たかったのだが、どうやら1951年制作の映画のため、今から72年前の作品である。
主演は田中絹代。当時42歳くらいの田中絹代がお遊様を演じるわけだが、まぁ、単純にいうと、この作品は谷崎潤一郎のテーマの一つの母恋いにS&M的関係性を交えた気持ち悪い作品なのだが、基本的には、三角関係の話である。
冒頭、縁談の相手を待つ主人公の槙之助、お相手の美女お静さんが来たー!と見とれていると、実は付き添いの未亡人お遊さんだった。槙之助は見合い中もお遊さんが気になってしょうがない。お静さんは名前の如く静かで何を考えているのかわからない。そんな二人の見合いを遠くタバコを吹かしながら我関せずにお遊さん。ここに破滅へのカウントダウンが始まる。
槙之助は縁談をまとめてくれているオバさんや恋している相手お遊さんからも、お静と結婚してよ、あの子いい子よと言われ続けて精神的に参る。そして、当のお静からは、「私、あんたのこと好きだけど、あんたお姉ちゃん好きなんでしょ。わかるのよ。私、あんたも好き。お姉ちゃんも好き。どっちも好き。だから、私と結婚して3Pしない?」と、言われてついに折れる。ちなみに、3Pは完全なる嘘だが、まぁ、三人仲良く、お静とは肉体的交渉は持たない、という異様な関係が完成し、お遊さんだけそれに気づいていない……、というヘンテコリンな話であり、まぁ、谷崎の完全なる妄想(願望)である。
今作は、小説は夢幻能の形式を取っている。水無瀬神宮が舞台なのだが、小説ではそこにやってきた主人公に、知らない男からこの映画の話が語られるのだ。
夢幻能は、まぁ、主人公が史跡に来て、その史跡にまつわる由来を話す謎の人が物語を語りだして、そうして話し終わるとその正体がわかり消えてしまう、的な、めちゃくちゃ簡単に書くとそんな感じなのだが、まさにそのような話であり、上記の頭のおかしい三角関係も、幻想のヴェールに包まれたように描いて縹緲たる白昼夢や夜想の如し作品として描かれている。
『春琴抄』も、鵙屋春琴伝という謎冊子(というか、主人公佐助の俺の女の歴史自慢という変態私家本)を発端に、幻想世界へと誘われてき、それは最終的に始めにも描かれた近代のビルディングの中に消えてしまう、そのような作品で、夢幻能形式の変形である。
で、この映画に関しては、そのような展開はなく、完全にただのメロドラマ的に描かれており、夢幻能的な幻想性は一切なく、凡庸な内容になってしまっている。夢か現か、それこそがこの小説に良いところだと思うのだが、完全に変態三角関係を真正面から描かれてしまうと、なんとも言えぬ感情の話だけになり、品格すら落としてしまう。
今作は、甲斐庄楠音が衣装考証を担当しており、甲斐庄楠音といえば、今、ちょうど展覧会をやっているではないか。
そして、甲斐庄楠音といえば、岩井志麻子の『ぼっけえ、きょうてえ』のカバー絵に使われているではないか。この『ぼっけえ、きょうてえ』は、岡山の言葉ですごく怖い、という意味らしいのだが、これを三池崇史監督が映画化した『インプリント』はあんまり怖くなかったのを思い出す……。
甲斐庄楠音は、溝口健二と懇意で、彼の映画を手伝った縁で、美術界から映画界へと渡った人だが、様々な作品で衣装美術を手掛けたりしている。
あまりにもインパクトが強烈な絵だが、然し、それこそが重要なのである。インパクト。嫌われようがインパクトがなければいけないのである。
例えば、全然関係ない話で恐縮だが、同じ『サスペリア』でも、ダリオ・アルジェントの『白雪姫』の色を出したかったという極彩色のオリジナルは永遠である(意味不明だが)。
然し、それよりも話が整理されて丁寧に整えられたルカ・グァダニーノの『サスペリア』はモダンで美しいが、然しやはりオリジナルには及ばない。
それは『お遊さま』にも言える。毒気の抜かれたメロドラマは、どこか味気なく、観たものに刹那で忘れられる運命なのである。