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美獣

1-8

 光本ダンス教室では、もう開催も間近の発表会の準備に追われて、レッスン生までもが、大わらわだった。
 公武は、『薔薇の精』と『ぺトルーシュカ』を交互に演じていて、もはや、どちらがほんとうの自分で、どちらが演じられている役割かわからなくなるほどだった。『薔薇の精』の、中性的な、ある種、性のメタファーを演じながら、『ぺトルーシュカ』のような、滑稽な道化を演じる。しかし、そのどちらも、今の公武にはわかるのである。
 美月は、美しい火の鳥になって、若い令嬢に変身する。紫陽花の中で踊った『薔薇の精』。その時、美月はまだ恋を知らない乙女の出で立ちで、人形のような令嬢だった。今は、恋に焦がれて、男の脣の味を知る女である。それが、『火の鳥』にはっきりと立ち現れていた。
 美月の変化は、自分の変化を見るかのようでもある。童貞を捨てて、女を夢の中に誘う薔薇の精が、自分の中にいるかのようである。
 女を知って、男を知ると、踊りが育まれるのだろうか。そうして、より一層に美しい踊りになるのであろうか。
 恵は、稽古に来るたびに、あの黒い目を光らせて、バレリーナを演じた。恵のバレリーナは、あまりにも恵本人に似ていて、怖いほどである。演技とわかっていながら、自分を足蹴にする様に、公武は妙な不安をかき立てられた。
 思えば、恵が、自らがバレリーナを演じるのだと、言いだしたのだった。稽古が終わるたびに、恵はちらと公武を見つめた。それまでは、役に入っているつもりなのか、いつもそっぽを向く。稽古が終わっても、そのままシャワーを浴びて帰宅する。しかし、その日は、珍しく恵から公武に話しかけてきた。公武はおどろいて顔を上げると、目の前の恵は、タオルで汗を拭きながら、
「ねぇ。身体を拭いてくださらない。」
自分のタオルを差し出すと、恵は背中を向けた。恵の背は、汗の玉が光り輝いていた。公武は、ゆっくりとレオタードに触れて、汗を拭いた。美月の目が、公武を見つめていた。その目は、何か不潔なものを見るかのようで、かすかな軽蔑が交じっている。
「あの子、見ているわ。」
恵は、ささやくように公武に言った。公武は、
「何がです。誰がです?」
とぼけるように答えると、恵は大きくため息をついて、
「美月よ、見ているわ。ほら、やきもちで、赤くなっているわ。」
美月は、白いほほを赤らめて、二人を見つめていた。その目は、どちらに対しての嫉妬でもあるように思えた。
「あの子を怒らせようとしているんですか。美月ちゃんは、恵さんに憧れています。」
「同性愛的だわ。あなたにも抱かれたいし、私にも抱かれたいのね。いっそのこと、三人で性交してみる?」
「まだ子供です。」
「あら。やきもちを焼くのは立派な女だわ。大人のね。」
そう言って立ち上がると、恵は公武の手からさっとタオルを奪い取って、そのままレッスン場を出て言った。公武が美月を見つめると、美月はもうバーを掴んで練習に戻っていた。

 稽古が終わり、公武が帰り支度をしていると、光本が声をかけてきた。手を見ると、二枚のチケットが握られていて、光本はそれを公武に握らせた。
「公演のチケットだよ。刷り上がって、今日印刷所の人が納品に来たんだ。」
チケットには、いつの間に撮られたのか、公武の写真が載っていた。薔薇の精に扮した公武である。それは、自分を見ているようで、自分ではないようだった。
「最近は、もうインターネットのコードで対応しているだろう。だから、こういう紙のチケットを手にすると、わくわくするんだよね。」
そう言われて、公武はチケットを撫でてみた。しかし、公武にはなんの感興も湧かなかった。それは、光本と違って、子供の頃の記憶などないからかもしれなかった。
 外に出ると、大粒の雨である。夏の嵐で、スコールだった。叩き付ける滴に、足下が滲んで見えた。目の前に傘が差し出された。美月だった。
「夏の夕暮れはこういうことがあるから……。入って下さい。」
公武は頷いて、美月の傘に入った。しかし、女物の小さな傘で、公武の身体の半分はぬれた。
 遠くで雷もなっているようで、ときおり稲光が走った。しかし、歩いている内に、町の音たちに紛れて、遠くなっていった。
「今日はもうこのまま帰りますの?」
「うん。練習で疲れたからね。」
美月は自分の家に寄りたいのだと、公武には思えた。しかし、恵の顔がちらついて、公武はそれ以上は何も言わずに、黙った。
「雨宿りがてら、お茶でもしていきませんか?」
そう言うと、ちょうどバス停に停まったバスに乗り込んで、公武を手招きした。公武は慌てて乗り込むと、
「家に帰る方が近いじゃないか。」
「冒険も大事ですわ。思わぬ冒険でしょう?」
恵のような自由さに思えた。美月は公武に恋をしていて、それが美月の内面をくるりと変えてしまっている。硝子細工のような清純な美しさはそのままだが、しかし、中身が変わってしまって、触れるととたんに、恐ろしいほどの情熱の火が流れてくるのではないだろうかと、公武には思えた。
 バスは終点の鎌倉駅で乗客を吐き出して、公武はそのまま前を行く美月の後に着いていった。雨脚は弱まって、雲間からかすかに日が差している。鎌倉駅の屋根に、小さな虹がかかっていた。虹を見つけて、美月は手を伸ばした。虹には触れられなかった。
 駅舎で雨宿りしていた客たちがぞろぞろと動き出して、小町通りは人で溢れそうだった。学生が多く、外国人も多かった。異国の言葉が交じりあっていて、古都ではないようだった。
 人混みの中、美月は公武の手を引いて、そのまま横道に入る。ミルクホールという看板があって、その看板を指さすと、案内に従って、そのままさらに脇道へと入った。茶色い建物が見えた。ミルクホールだった。
「ここよ、ここ。ここで雨宿りをしましょう。」
もう雨は止んでいたが、美月はうれしそうにそう言うと、ミルクホールの玄関を開けた。オーディオから、ジャズが流れていた。公武には馴染みのない曲だった。オーケストラばかり聴いているからか、音程が掴めない。しかし、ジャズに併せて踊るまぼろしがひととき、公武の目ぶたに浮かんだ。
 美月は、ブロンズの胸像が置かれている一番奥の席に腰を下ろすと、公武を手招いた。先程までの人並みは嘘のようで、音楽が流れていても、静かだった。客は、美月たちの他に、一組しかいない。
「静かでしょう。」
「よく来るの?」
「ときどき。ねぇ、この場所、映画のロケで使われたんですのよ。」
「なんていう映画?」
「『ツィゴイネルワイゼン』っていう、昔の映画。原田芳雄の……。聞いたことあって?」
公武はかぶりを振った。映画なぞ、公武はほとんど見たことはなかった。店内を見回してみると、さまざまな装飾が目についた。そのどれもが、古いものばかりのようで、新しいものはないようだった。ふいに、公武の目に、モノクロの写真が飛び込んできた。注文を取りに来た店員を素通りして、その写真の近くまで行くと、公武は愕然とした。公武の家に飾られている、幼い少年の頃の写真だった。公武は、ゆっくりと手を伸ばして、その写真に触れた。ざらついていて、ゆびさきにかすかに埃がついた。
「どうしたの?」
気がつくと、美月が横に立っていた。美月は、微睡んだ眦で、公武を見上げた。その美しい眦に浮かぶ黒い目に、恵を感じた。美月は、恵の半身なのであろうか。汚れのない美月と、汚れを知る恵。しかし、もう美月は汚れに近づいている。恵に近づいている。それならば、恵はぎゃくに、透き徹るように、清らかになっていくのだろうか。
 公武はかぶりを振って、ゆっくりと席に腰をつけた。そして、何度も視線をあの少年に向けた。とたんに、いつも愛おしく見ていた少年の写真が、邪悪そのものに思えた。まったくの他人だった。
 美月はカフェ・ラテを頼んで、公武はアイスコーヒーを頼んだ。他の客が入ってくる様子もなく、ただただ静かな時間が流れた。もう雨は完全にやんでいるだろうか。ときおり、外に人の声が聞こえて、耳を澄ますが、しかし、異邦人の声に聞こえる。ほんとうは、誰もいない夏のささやきかもしれなかった。
「恵さん、素晴らしいわ。」
美月が唐突につぶやいた。公武は顔を上げて、美月を見つめた。
「恵さんが素晴らしいって……なんで。」
美月はカフェ・ラテのコップに脣をつけた。溶けた紅がラテに交じった。
「ほんとうに美しい踊り。白鳥も素晴らしかったけど、ほんとうの人形にしか見えないもの。」
美月は、稽古場で恵のバレリーナを見ている。『ぺトルーシュカ』を袖にする人形を見事に演じる恵を、美月は羨望を持って見つめていた。
「ゆびさきのひとつひとつにまで、意味が込められているわ。あんなに繊細で、それでいて大胆で。」
「君だって素晴らしい乙女を演じている。」
公武がそう言うと、美月はほほえんだ。
「薔薇の精の僕が言うんだから。お墨付きだよ。」
美月は頷いて、カップを両手で持った。そして、そこに浮かぶ氷を眺めながら、
「でも、私は恵さんにはかなわないわ。あの人は、本能で踊っているわ。人からどう見られていても、気にしていないのね。」
「恵さんらしいじゃないか。」
「だから、怖いわ。あんなに色んなものになりきるから、そのまま、役のまま戻ってこないんじゃないかって、心配になるわ。瀕死の白鳥になって、そのまま死んでしまう……。」
アンナ・パブロヴァは、『瀕死の白鳥』を踊ったとき、幕が上がらなければ、そのまま演じ続けていただろうと、そう言ったことがあった。公武は、それを思い出した。
「人形になってもそう。ほんとうに、心が無いようなの。でも、それが美しいの。」
恵の黒い、空洞のような目を思い出した。あの黒い目は、ときおり冷たく光り、ときおり火がきらめく。
 美月は、その恵を模そうとしているのだろうか。恵を崇めるあまりに、恵の模倣品になってしまうのだろうか。それは、恵を模した人形ではないだろうか。
「あなたなら、私の気持ち、わかるでしょう?」
美月は上目遣いで公武を見つめた。公武は、何も言えなかった。
「だって、あなたはぺトルーシュカそのものなんだもの。」
「ぺトルーシュカ?」
「命を与えられたって、絶対にバレリーナには届かないのよ。届くわけがないのよ。」
美月はほお杖をついて、そう言った。赤光が差して、美月のほほをより赤く照らした。美月は、やはり恵の半神なのだろうか。

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