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萌え萌え春琴抄

谷崎潤一郎の名作『春琴抄』は、昭和8年に刊行された。つまりは、1933年生まれなので、御年90歳の名作だが、私はこの作品を読むたびに主人公である温井佐助がサイリウムを振りながらヲタ芸を必死に繰り出す様が目に浮かんでくる。


春琴抄は紛うことなき萌え小説であり、いや、いつだって大谷崎おおたにざきは萌え小説を書き続けきた。それも、ちょっとHな、という枕詞が付く。
俺の理想の女、春琴たんを書くために、京都高雄の神護寺に籠もって執筆するほどだ。

そして、もう一人、川端康成という女狂いの萌え小説家もおり、この男は延々とアイドルを下に見る俺、的な小説、あるいは、好きな女が没落するのを見ている俺、的な、願望充足系萌え小説を書き続け、なんの間違いか海外の奇特な萌え大好き人間であるサイデンステッカーに訳されたり、ドナルド・キーンに愛されたりと、気づけばノーベル文学賞を獲ってしまった。

これはもう、当然の帰結なのである。
何故ならば、萌え、こそが藝術であり、文学を藝術に昇華する方法の4つのうちの一つが、美女乃至は美少女、なのであるから。

川端康成は、基本的には聖なる少女、野生の少女、この2パターンの女性を美神として作中に置く。まぁ、ミューズ、というやつである。
そして、その根底には彼の出会ってきた女性たち、特に、婚約者だった伊藤初代の存在があるのは周知の話だが、大好きだから、実感があるのである。
カフェ・エランで働いていた初代や、カジノ・フォーリーの梅園龍子など、基本的には、会いに行けるアイドルが大好きなYASUNARIである。
彼女たちと会ったら満面の笑み、けれども、なんだかんだプライドの高さが邪魔をして、相手を下に見る、お得意の技を発動させて、うざがられていたに違いない。

そして何よりも童貞マインドを後年まで大切にしていたYASUNARIである。濡れ場はお淑やかに書く。だって、よく知らないから。か、どうかは知らんが、まぁ、彼の藝術を彩る美少女、聖少女たちは、処女であるか、無理矢理に犯されている。そこに神聖を見出す康成によって、彼女たちは永劫のものとなる。
聖なる娘も、野生の娘も、どちらも人生の苦難、受難に耐えて、その美しさを一層に輝かし、その籠の鳥を愛でるのが康成作品だが、彼には女性も、そして数多の猛禽類、美術品も、コレクションでしかない。だから、美しいのである。
女性には口臭もなければ、体臭もない。それは抱いていないからである。そして、人間として接していないからである。だから美神は美神である続ける。
片思い、永遠の片想い。それが藝術へと転身する。

谷崎は女性を口説いては手籠めにして娶り、また離婚しては口説いて、を繰り返していたが、然し、彼はまぁYASUNARIよりはアグレッシブで、だが、やはり釣った魚、抱いた女性からはその香気が失われていく。彼は追い求める。今恋している、今愛している女、その女性の匂い、その女性の分泌物を藝術へ転身しようとする。
そして、飽きればもう終わり、次は別のミューズを探すのである。谷崎のその異常な創作手法は死ぬまで続けられた。

種のない手品はないように、人間だってその例に漏れない。
手品は種が割れればそこに幻想は生まれない。
窓辺の君、片思いの美少女は、幻想というヴェールの奥に存在し、秘密、というものが藝術の種である。この種が割れれば花は咲かない。秘密の花園は幻視するものであり、実際に足を踏み入れたその時に、そこは案外に狭く、花は萎れていて、隅々汚れていることに気付く、魔法が解けてしまう。

以前、noteにも書いたが、北野武監督の『DOLLS』のエピソードは『春琴抄』をベースにしていて、アイドルである春奈、そして追っかけの温井の二人の死出の旅だが、流石は北野武で、『春琴抄』の本質がアイドルにあることを看破している。

そう、谷崎はつねにアイドルを書き続けきたし、川端もそうである。そして、多くの藝術家もそうである。

美少女は美しいから藝術になるのではない。秘密を持つから藝術になるのである。そして、秘密を持ったまま大人になれば、美女もまた藝術になる。
けれども、秘密のない美少女や美女はただ美しいだけで、藝術にはならない。

そして、その秘密は書き手が恋をしていなければたちまち消え去る砂上の楼閣である。
ミステリアス、というのは何よりも大事な要素だ。ただ美しいだけで、真っ直ぐなタイプが藝術になり得ないのは、秘密と背徳がないからだ。

恋心が消えた時ー、その人はミューズではなくなる。ただの人になる。恋が藝術を作り、秘密が藝術を作る。そして、恋は秘密そのものである。




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