The Ding Dong Song
夕暮れに青く染まったモスクから巡礼の声が聞こえ漏れてくる。瓦斯灯に灯りが点って、街々から人の気配が薄れていく。
僕は坂道を駆け上がって、滑り込みセーフで昆虫館の扉を叩く。館長は椋木の椅子に腰掛けていて、眠たそうにその黒い口髭を擦っていた。僕の姿を見ると立ち上がり、手を振ってくれた。
お父さんが僕をここに連れてきてくれたのだった。それから、もう毎週、毎週、通っている。本当には毎日来てもいいくらいだった。昆虫館とは言うけれども、小さな標本を扱った店だ。
日本だけではなく、台湾の、ドイツの、アフリカの、ロシアの、ウィーンの、様々な蝶々が所狭しと並べられている。蛾と蝶々は外国では区別しないのだと、ここで教わった。
館長は僕に様々な蝶々の名前を優しく教えてくれた。それから、お父さんとも度々ここに来ては、色々な蝶々を夢見心地で見せてもらっていた。
「ブータンシボリアゲハを知っているかい?」
館長にそう尋ねられて、僕は首を振った。
「世界一珍しい蝶々だよ。ブータン王国、ヒマラヤの奥地に生息しているんだよ。」
教えてもらったその日からその蝶々を図鑑で見るばかりで、いつかこの目で見てみたい、そのような思いに囚われた。ブータンシボリアゲハは、ヒマラヤの貴婦人だという。その黒と白の縞模様に、翅の下部にある朱い大きな紋様が、貴婦人の御洋服と化粧を思わせるからだ。そして、それは写真で見ても、全くその通りだと思えた。
日本ではこの蝶を見ることは標本でも極めて難しいのだという。叶わぬ恋、というものだ。いつか、この目で見ることが出来たらなぁと僕はその蝶に恋い焦がれた。
瓦斯灯の灯りで街がいっぱいになると、昆虫館のウィンドーに飾られた標本たちが生きているかのように輝き出す。お父さんが、僕の手を引いてここにやってきた時、その光景を見ながら、
「死んだものはっていうのは何も怖いものがないね。反対に、清められているね。」と独り言を呟いていたのを、いつもウィンドーの前に立つたびに思い出していた。
店には先客がいて、僕は見慣れないその黒いコートの紳士に軽く会釈すると、狭い店内の中に置かれたモルフォ蝶の標本を眺めていた。紳士は館長と何かを囁き合うように話していて、蝶々の話をしているのはすぐに聞き取れた。問題は、どうやらその蝶々があの貴婦人、つまりはブータンシボリアゲハのことを指していることだった。僕の胸は瞬間に高まって、そのまま心臓が止まるかと思えたほどだった。きっと捕まって心臓を潰される瞬間の蝶々はこんな気持なんだろう。僕は耳を欹てた。館長も、紳士も、話に夢中で、僕が聞き耳を立てているなんて思ってもいないだろう。
紳士の話はこうだった。昆虫館を出て、外国人街を抜けたその先、山の手の坂道を降っていき、教会を超えると大通りに出る。そこにある、この街の夜のランドマークともいえる6階建てのオーストリアの木組みの洋館の最上階に住む蝶々コレクターの大富豪が、ブータンシボリアゲハの標本を手に入れて、その部屋で愛でているのだと。
僕はその洋館を見たことがあった。夜に、お父さんの車に乗せられて見た車窓から、美しい建物が光に照らされて、均等に並んだアルプス小屋風の窓、そのどの窓にも、真っ赤な薔薇が活けられていた。僕はそれを見上げて、お父さんの横顔を見た。お父さんはかぶりを振って、
「あそこでは夜な夜な恐ろしい夜会が開かれているんだよ。近づいちゃあいけないよ。悪い子だけがあそこに行くんだ。」
その言葉の意味がわからなくて、僕はただ頷いた。その時の僕はまだ幼稚園に入ったばかりで、今だってそんなに年は変わらないのだ。
僕は、その蝶々が見たくてたまらなかった。けれども、同時にとてもとても恐ろしいとも思っていた。それは、その蝶々コレクターの大富豪は、様々な悪い噂を持つ人だったからだ。
その高層の洋館は、モダンなビルディングの中に屹立してより時代遅れに見えたけれども、異様な空気に包まれていた。その中ではお父さんの言葉通り、夜な夜な恐ろしいパーティーが開かれていて、たくさんの女性が高級外車で玄関に乗り付けて、蘭、百合、芍薬、ガーベラ、様々な花の様々な花束を抱えて中へと入っていく。それらは皆、娼婦なのだと誰かが言っていた。美しい女性、美少女たち。僕はその意味を識らなかったけれども、女性だけじゃない、男性もたくさんいる、特に、美少年は彼の大好物だと、そう聞かされて、何か本能的に恐ろしく、そして美しいことがそこで行われていることが想像できた。
たくさんの人々はそこで起きる乱痴気騒ぎに想像を膨らませて、あることないことを語っていた。大富豪紳士の趣味で、それらの光景は全てセルロイドのフィルムに収められているのだと、そういう話もあって、それは高値で売買されていて、そのお金で彼は蝶々の標本や美少年たちを買うのだと。けれども、ブータンシボリアゲハの話を聞いて、幼い僕は、その女性たちが、或いは男性たちが、そしてその美少年たちこそが、きっと皆蝶々たちで、彼のコレクションになるのだと、そのように夢想した。それならば、彼らがお花を持ってやってくることの符号もぴったりとハマるではないか。
そうして、僕はどきどきする胸を押さえながら、とてもじゃないけれども、お父さんにそのパーティーに連れて行って欲しいとは言えなかったし、どうしようか考えに考えて、紳士が店を出てくるのを待つことにした。
昆虫館の灯りが消えて、紳士がガラス戸を空けて出てきた。店内はうっすらと仄明るく、館長が仕事道具を片付けている姿が見えた。
紳士は僕に気づいて、しゃがみ込み、僕の目を見据えた。
「もう暗いだろう。なぜこんなところにいる?」
そう尋ねられて、僕は答えることが出来なかった。暗がりで、紳士の顔はよく見えなかったが、香水が匂って、僕はお母さんを思い出した。家族の匂いを思い出した。
「蝶々が好きなのかい?」
紳士に聞かれて、僕は頷いた。紳士は微笑んだ。そうして僕は勇気を振り絞って、
「そこでね、ブータンシボリアゲハの話を聞いていたの。」
そう言うと、紳士は驚いたように口を開いて、暫く考え込むような顔をして僕を見つめた。そうして、
「ちょうど、僕は今からその標本を見に行くんだよ。今夜のパーティーの招待状がここにある。」
ひらひらと、蝶がはためくように、僕もまた瞼を瞬かせて、その美しい金縁に彩られた招待状に魅入った。紳士はその招待状をスーツの胸ポケットに仕舞い込むと、また僕を見つめた。
「この招待状では一人だけしかパーティーに入ることができない。」
その答えに、僕はうなだれた。
「同伴者は別だよ。一人。今夜の蝶々はまだ決めていなかったからね。ただ、君は少年だから、少し仮装しないといけないんだ。」
「仮装?」
僕の鸚鵡返しに、彼もまた鸚鵡返しをしてみせて、ついてきなさいと、僕の手を取った。その手の感触はとても懐かしい、いや、とても見知っているものの感触だった。
紳士は僕を近くの青い木枠のフレームでガラスを全面に張った花屋に連れていき、そこで黄薔薇を1本買うと、
「これは見分けがつくようにだ。」
それからたくさんの蘭の花でブーケと花束を作らせると、それを小脇に抱えて、そのまま奥の部屋へと僕を連れ込んだ。
僕はするすると上着を脱がされて、彼は白い化粧を僕の全身に塗りたくった。今度はカチャカチャとベルトを取られてズボンも脱がされると、全身くまなく白粉を塗られ、真っ白な鬘を被せて、そうして唇に紅を塗ろうとして、はっとその動きを止めた。
「こんなに初々しいものに、この紅はどうかな。」
考えるように言って、けれども、紳士はそのまま唇に紅を乗せた。そうして、黄薔薇を白髪の鬘に差し込むと、これで良しと、そのまま僕を連れ出した。僕は裸足だったから、紳士はそのまま僕を抱きかかえて(僕はまだ5つにも満たないのだから)、足取りも軽く片手にブーケと花束を持って、部屋を飛び出すと、銀色のロードスターに乗り込んであの西洋館へと向かった。
夜景がキラキラと輝いていて、昆虫館の前を通ると、蝶々たちの目も輝いて、僕にどこに行くのか尋ねてくるかのようだった。そうして、ビルの星屑から空の星屑までが全部、僕の目の中に落ちて散らばったかのように鮮烈な輝きだった。
あの西洋館が見えてきて、窓辺からたくさんの裸の女たちが身を乗り出して手を振っているのが見えた。ブラスバンドの鳴らす曲が、下の道路にまで飛び込んでくる。
そうして、彼女たちの嬌声を耳にしながら、僕は紳士に手を引かれて、車を降りると、彼に付き従って、ドアマンの前に立たされた。
「今夜の招待状だ。それから、この子は僕の連れだ。」
紳士の言葉に頷いて、ドアマンが部屋を開けると、巨大な熊が現れた。いや、熊、ライオン、象、虎、ダチョウ、様々な動物の毛皮が並べられたリビングにたくさんの花々がそれを囲い、中央には大量の蝋燭が灯されて、裸の女たちがニヤニヤ笑いと馬鹿笑いとでオーケストラを奏でていた。
紳士はそこにいる一人の娼婦にぱっと花束を投げ渡すと、リビングの奥へと突き進み、エレベーターの6Fを押した。エレベーターはぐんぐんと上がって、階を通り過ぎるたびに何やら叫び声や笑い声がドアを隔てて聞こえてきた。
6Fにたどり着くと、チン、という音とともに、ドアが開いて、僕はあっと声を出した。僕のように身体を真っ白な白粉で固めた男の人がたくさんいて、彼らは全員目隠しをしていた。だから、背格好は違えども、皆同じ人のようにも思えた。全員が僕よりも随分大きかった。
「おっと、忘れていた。君にもだ。」
紳士は僕に目隠しをすると、ぽんぽんと背中を叩いて、
「シュトロハイムもかくやの乱痴気騒ぎだ。ウィーンの退廃だな。彼らはホワイトオーケストラと呼ばれている。唇はけだし、けれどヴァイオリンは囁く、だな。」
と、床に僕を置いて、そうすると、裸足の足裏にビロードの絨毯の柔らかな毛並みが立ち上って背筋を駆け上がり、僕は耳まで赤くなった。
「この黄薔薇が君である証だ。ほら、今の君には見えないかもしれないが、皆、赤い薔薇をつけている。あれをつけている者は皆が皆、初物ではない、ということなんだよ。」
僕はわけもわからずに頷いて、ただ、ブータンシボリアゲハのことだけを考えていた。急に背中を誰かに押されて、僕は白粉の匂いの中に飛び込んだ。怖くなって、目隠しをそっと外すと、真っ赤な唇が眼前に迫っていて、驚いてそこから逃げると、紳士の姿は見えない。目隠しを少し上げたまま、さっと絨毯の上を走って、その乱痴気騒ぎから逃げ出すと、僕は部屋の奥にある小さな扉を空けて、その中に隠れるように入った。扉は、静かに静かに閉めた。その部屋は、常夜灯が瞬いていて、静かだった。扉一枚を隔てて、別世界のようだった。そうして、そこには、目を奪うほどに山のような蝶の標本が棚や壁に所狭しと置かれていて、僕は思わず目隠しを外した。この中に、ブータンシボリアゲハがいるのかもしれない。僕は、急いがないと、早くしないと、見つかっちゃう、そのようなことを口走りながら、お目当ての揚羽蝶を探した。果たしてそれはそこにいた。しかも、それは標本ではなく、生きていた。間違いなく、生体のブータンシボリアゲハだった。
僕は図鑑を読んで、この蝶々を日本に持ち込むことは犯罪なのだと書かれているのを識っていたし、それは「みつりょう」、と言うのだということも識っていた。貴婦人はゆっくりとはためき、その朱い文様は、本当に唇か頬紅のようだった。いい匂いがして、僕は急に眠くなった。それは、僕の身体から出ている匂いなのか、はたまた、ブータンシボリアゲハの匂いなのか、どちらからなのかは定かではなかった。僕は、この貴婦人に触れたいという欲望に駆られて、いや、それはもはや原始的な子供の本能的な性の目覚めだったのかもしれないけれども、ゆっくりと、その蝶々を、たどたどしい手付きでこの手に包んだ。指先で挟んで、蝶々の目を見ると、僕は嬉しさに胸がこの上なくときめいた。がちゃりと、扉が開いて、僕はとっさに後ろに手を回して、蝶々を背に隠して、目の前にいる紳士を見上げた。彼は、僕を連れてきた紳士とは別人のようだったが、常夜灯の灯りの下では区別がつかず、似た人のようにも思えた。その紳士は、ゆっくりと僕を見つめた。鋭い目だけが僕を見据えた。その目つきは見知っていた。どこか優しげな匂いがして、これもまた、僕には覚えがあった。僕は困ってしまって、どうしていいのかわからず、固まってしまった。
「黄薔薇。」
そう言って紳士は僕の黄薔薇に触れると、胸ポケットから紫のハンカチを出して、僕の唇をゆっくりと拭いた。シルクの紫の上に浮かぶ赤色だけが毒々しく灯りに照らされていた。僕はその紳士に抱えられた。慌てて、蝶々を潰さないように、ゆっくりと掌に包んだ。蝶々の身体は僕の掌よりも大きく、翅がはためていた。紳士はそれに気付く様子もなく、ただ僕を見ていた。彼の目の中に、僕の両頬が朱く瞬いているのが見えた。
紳士は白粉まみれの裸の美少年たちを押しのけその脇をすり抜けて、そうして、僕は彼らが目隠しをしているのに思い当たり、隠さなきゃと、自分の額の目隠しも下ろした。紳士はエレベーターに乗り込み、1Fを押した。そうして、またエレベーターが降りていく中、狂騒と喧騒とがドアを通して断続的に聞こえてくるのが聞こえた。
チン、という音と共に、エレベーターの扉は開き、紳士は僕を抱きかかえたまま玄関先の黒塗りのセダンの後部座席に乗り込んだ。そうして、僕の白粉で真っ白な膝から足をゆっくりと撫でて、耳元で、
「ヒマラヤの貴婦人はどうだった?見せてごらん。」
と囁いた。僕は、手を開いて、蝶々の翅が掌に何度も接地するのを感じながら、
「すごくきれい。」
そう答えた。彼は頷いて、ゆっくりと僕の掌を戻して、蝶々を納めさせると、
「悪い子だな。もう、危ない遊びはしないように。いいね、坊や。」
と、いつもの声色でそう言った。