肉体、滅びる藝術 金森穣『闘う舞踊団』
金森穣の『闘う舞踏団』を購入して読んでいる。
りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館の専属劇団であるNoismの誕生の軌跡が描かれている。
そもそも私は、ドキュメンタリー的な映画、本が好きだ。
映画でも、困難の末に出来上がる制作秘話などが好きであり、下手したら、本編よりも好きだ。って、それは、制作している人からしたらがっくし、かもしれないが、然し、素晴らしいものを作るのは、大抵、一朝一夕ではないものだ。多くの労苦を伴うのだ。
お金の問題、人間関係、派閥、利権、技術、様々な問題のため、大勢の人間が関わるものというのは、個人で行うよりも、難易度が増す。無論、個人には個人の壁が存在するが。
特に、それが、行政が絡むと尚更なのであろう。Noismは市が運営している劇場の専属の舞踊団のため、発足当初から様々な軋轢を経験して、都度それを突破して、何度も辛酸を舐めたと、そう述懐されている。
noteは、藝術や文化活動に関して理解の深い方が多いとは思うが、俗世間というのは、皆そんなに文化藝術に興味がないのである。
そういう、文化藝術に関して興味のない人間が運営権を握っているという悲劇、然し、その大きな壁を少しづつ、少しづつ解体していく様が綴られる。
まずは、金森穣氏の生い立ちから語られていて、バレエを始めてからルードラ・ベジャール・ローザンヌへの入学の話は非常に興味深く読んだ。ベジャール、と、いえば、モーリス・ベジャールであり、20世紀バレエ団を率いるカリスマ的なコリオグラファーだが、それは、私でも識っている。
ベジャールはバレエ・リュス、ロシア・バレエ団の影響を多大に受けているのだ。
金森穣氏がこの本の中で、何度も何度も、劇場文化、というものを根付かして、成長させて、それを後世に残していく責務について語っている。
これは、舞踊、と、いう藝術の、特殊性が関係しているに他ならない。
本文でも語られる通り、舞踊、踊り、と、いうものは、残らない。映像では残すことはできるが、流星のようなものである。語り次ぐ、技術を継承していく、その身体性を、次代へ引き継ぐために修練を続ける、それこそが大切であり、一過性のお祭りではない、というのである。
無論、他の藝術も、技術の継承は必要だが、然し、それ単独で半永久的な命を持つ教科書にもなり得るわけだ。特に、小説など、ここで、脱線するが、よく、小説の書き方講座、という、馬鹿が買う本を手にする方もいらっしゃるが、小説の書き方は小説を読めば解するのであって、それ以上の教材は存在しない。そして、小説だけではなく、日頃目に入る文章、耳にする言葉、そのニュアンス、それに意識的に触れて常に考えることが稽古であり、小説の書き方という詐欺師の指南書に手を出すのはお金がもったいないので辞めるべきである。
で、まぁ、そういうことだ(どういうことだ)。
金森氏は、ここで、能などの世襲性に少し懐疑的な意見も書いているが、一子相伝の持つメリット・デメリットは確かにあるだろうし、やはり、本当の意味で高みにいるためには、才能を持つ者が見出した才能の後継者にその技術を教え込むことが一番理に適っているだろう。一子相伝、世襲、というのは、利権というものが幅を利かせすぎる。
で、本文では、海外での苦労なども書かれていた。海外の舞台に行くと、いつも話と全然違うことが多く、とても踊れるような場所ではない劇場だったり、機材が演出と合っていなかったりと、とんでもないリスクなどを背負ったうえで試行錯誤で対応しなければならないと。私は、これを読んでいて、心に刻んだ教えを思い出す。
『単独潜入、武器は現地調達』。
これは、ゲームのメタルギアソリッドのことであるが、辛い時、苦しい時、常にこの心構えを思い出して欲しい。スネークを思い出して欲しい。
何でもかんでも御膳立てされている、そんなことを望む輩が多すぎるのである。人生、単独潜入、武器は現地調達。まぁ、つまりは、裸一貫、ということであるが、ダンサーたちもまた、常に裸一貫で闘っている、ということなのである。
私は、もう、居ても立っても居られなくなった。狭いリビングでパンツ一丁で思うままに踊りだす。
Noismの舞台が観たくて観たくて堪らなくなった。
然し、新潟である。つまりは、雪国、である。YASUNARIの声が聞こえる。「仏界入易、魔界入難、仏界入易、魔界入難、仏界入易、魔界入難、」
う、うわー!遠すぎる。距離にして560kmもある。車なら10時間以上かかる。私は、Noismを遠くから応援することしか出来ないことを悟った……。
と、思ったら一昨年とかもロームシアター京都でも公演されていたので、私は、自分の無知を呪った。今度こそちゃんと調べておかないと!
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