武甲山信仰①武甲山を囲む猿田彦命
宇根の氏神は、猿田彦神を祀っている。
山に囲まれている秩父になぜ海の神が祀られているのだろうか。
あまり知られていない武甲山信仰には「川」がある。
実家の氏神が猿田彦命であることは、よくわかっていない。
しかし、それ以前は、熊野信仰であった。
地図の6社のうち5社は猿田彦命を祀る。
①芦ヶ久保 白鬚神社(ご祭神 猿田彦神)
②根古屋 猿田彦神社、八坂神社(牛頭天王)、
③中郷 猿田彦神社、愛宕神社
④宇根 猿田彦神社(お天狗さま)
⑤宇根 愛宕神社
⑥宇根 八坂神社(牛頭天王)・猿田彦神社(現在は移動されている)
横瀬町における猿田彦信仰の特徴は、
・漁撈の技をもたらした海民
・サエの神
・国津神の武甲山
①漁撈の技をもたらした海民
宇根地区には、宇根遺跡があるように古くから先住民が住んでいた。
秩父盆地の形成で、最も古いのは50万年前の丘陵地帯。
隆起するたび、川もそれに引っ張られ氾濫する。
すると、次に約15万年前の羊山丘陵が隆起して地上に伸びてくる。
また荒川など他の川の支流が、その度に荒れ狂うことになる。
その頃、荒川が氾濫してできたポットホールが、
札所19番にたくさん見られ、秩父の札所の多くは地層の歴史を刻んでいる。
そのような地形から豊饒をもたらすのが川にあり、荒川や横瀬川などは獲物が多くとれた。
横瀬の鵜飼いの記録
鵜を馴らして川猟を生活する者には、
毎年5月頃、御陣屋の賄役(まかないやく)から、網札鵜札を受け取って猟をする掟があった。
『・・・・鵜札網札(川猟)望みの者、之れ有り候はば、
御陣屋へ罷り出て請け候様に、大宮郷大野原村、黒谷村、
横瀬村両影森村、久那村、上田野村、白久村いのはなへ申し觸れ候。
札(鵜飼の許可証)網札は、荒川本流横瀬川本流の川猟の許可証、
横瀬村生川浦山川などは早くから留川として、札による漁猟を禁止して、
川魚の繁殖を図っていた。』
ただ、願い出て留川の管理人となった者から銭(川猟をする権利金)を納めさせて、一定の川漁を許可した。
留川で猟をしたい者は、川銭を出した者(川番)に許可を受けて入猟した。
川番は、入猟銭を取り立てた(川番収入)』 ※「人と土より」
江戸時代、「生類あわれみの令」で、漁猟の規則が厳しく決められた時なども、鵜飼を幕府に願い出たこともあった。
多摩川も同様、留川での漁猟を行っており、網札、鵜札という鑑札が発行されていた。
網猟か鵜飼い猟かによって異なっていたようだが、鵜飼いは一般的に江戸時代でも行われていた川漁で珍しいことではなかったのかもしれない。
漁撈の技術は、海人族がもたらした技術であり、
川の漁の方法を編み出しながら生活の糧としていた。
横瀬川という呼称は、日本武尊東征のおり、
武甲山から荒川にそそぐ一連の流れが、集落沿いに横に走るさまをみて名付けられたと伝えられている。
また、横瀬町の西、秩父市に隣接する「姿の池」は、
「すがたっぱら」とよばれ、水田の灌漑をおこなってきた。
我家でも飲料水として利用している水だが、灌漑工事の伝承は古く、
931~938年とも伝えられ、山間の谷地を利用した灌漑用のため池は、
13箇所も存在していた。
このような横瀬川とそこに流入する数多くの支流、姿の池周辺の溜池、
これに伴う水田の用排水路が伝統的漁法として漁場となっていた。
(秩父山の民俗考古 小林茂著)
横瀬川の水系に生息する伝統漁法の対象になったものは、イワナ、ヤマメ、アユ、ウグイ、カジカ、コイ、ナマズ、ドジョウ、カマツカなどである。
横瀬小学校の下の方へ下ると、横瀬資料館があり、
その奥へいくと、ウォータパークシラヤマがある。
車道をあがっていくと横瀬川に面して秩父古生層がむき出している岩がある。それを「ブッテエ山」とよぶ。
ブッテや、グッテ、ジョレン、シダレなどと呼ばれた漁は、
出水時に岸辺の草むらに集まる魚を鋤簾型の竹製ですくい取る方法がある。
伝統的漁法を伝えてきた先祖の足跡をたどると、
赤平川、荒川、横瀬川から武甲山へ向かって歩くような設定があったと考えられる。
この図をみると、赤平川、荒川、横瀬川を囲んで札所が置かれていることも見えてくる。
それは秩父の札所巡礼と重なる川の道。
猿田彦神と縁が深い地域には、「アユの漁場」があるといわれる。
鮎(あゆ)が神格化された理由はなぜか?
もう少し、猿田彦命と鮎との関係を。