【丹党安保氏考②】秋田県鹿角市へ 丹党安保氏の原点を探る
今から6,7年前になると思う。出会いのきっかけは、縄文だった。
「縄文土偶を作る」という面白いイベントの時のこと。青森県から縄文土偶を制作している方を仙台にお招きし、知人から声をかけてもらったその参加者の中に丹党安保氏を先祖にもつ方と出会った。
「実家が「安保なんです」と言われた時、
「なんと!その節は大変お世話になりました」と、口から武士が出てきたものだ。
あれから数年たち、念願かなって2022年の10月、秋田県鹿角市へ、「安保」の名を記した歴史をみたく、訪れてみた。
秩父錦としゃくしな漬を携えて・・・(秩父の定番)
鹿角への道
盛岡駅から「みちのく号」(高速バス)で、1時間20分くらいで「花輪駅」に到着。縄文の大湯環状列石がある所で有名。
古くは鹿角ではなく、「上津野」と表記していた。上の(神)の津で海。
花輪盆地には、花輪・十和田の市街地が形成され、稲作やリンゴ栽培が盛んな地区も、この付近である。
主な山々だけでも八幡平、五ノ宮嶽、秋田焼山、三ノ岳、三方高、四角岳、
中岳、八森、山毛森、十和利山など多数の山々が存在する。
温泉もたくさん。
温泉が多いのは、「焼山」という山があるように、市内の所々に地熱地帯が存在しているため。「後生掛温泉(ごしょうがけおんせん)」は行ったことがないが、『登喜盛(ときもり)長者屋敷物語』に、アテルイの生まれ変わりといわれた若い族長と称されていた人がいたと伝わる。
悪路王ともよばれ、朝廷軍と戦った時、逃亡の後を大和がつけていたので
後生掛温泉あたりで追いつかれ全滅となったそうだ。
大日堂にあった武蔵型板碑
そんなアニミズムの聖地、蝦夷やアイヌの文化が残る鹿角には、興味深い板碑があることを教えてもらった。
大日霊貴(おおひるめむち)神社は、ユネスコ無形文化遺産に登録されている「大日堂舞楽」が有名。(毎年1月2日)
4つの村が担当して舞で村の結束の強さを感じる。
舞楽の起源は、鹿角の総鎮守である大日堂(大日霊貴神社)が養老2年(718)に再建され、尊像の開眼供養が行われたとき、都から下向した楽人により里人に伝えられたものといわれる。
この境内入り口に、古い板碑がある。
その鹿角に秩父産と思わす板碑があるそうだ。
秩父青石
地元から切り出した石材を使っている中、「ウ」の石碑は、武蔵型の秩父青石に見まごう石碑があったと。
武蔵の秩父産青石の石碑を鹿角まで持ってきたのか定かではないが、武士の板碑として、有名なのは、長瀞産の秩父青石を用いることはよくある。
丹党といえば、祖とされる秩父の「丹党中村」が発祥とも。
※丹党中村は、諏訪信仰
中世活躍した大里氏
大里城跡(本丸)のある所が、ご先祖様のお墓があるとの事。
大里城を構えていた地主。
ここに登場する「大里修里親基(おおさとしゅうしちかもと)」
の子孫をたどると大里の鹿角安保氏系譜は、武蔵七党のひとつ「丹党」で、その父:綱房は後の「新里恒房」と名乗ったという。
また、大里修里親基(祖父)の系譜には、秩父基房の名がある。
他、一族の系譜の中に、加治、白鳥などのタタラ由来の名もあった。
この成田氏は、鹿角四頭のひとつで安保氏も含む。
鎌倉時代、横瀬郷に領土を得た安保氏は横瀬氏に名を変え、他の安保氏は鹿角安保氏となったと言われる。安保氏の歴史は知られざる東北と横瀬町を繋ぐ歴史を物語っていた。
『鹿角由来記』によると、「一、大里村、大里上総知行高千石、本名阿保 館有」とあり、安保氏は鎌倉時代以降に奥羽にやってきて、この地で繁栄した一族であったという。
しかし、知人から聞いた話だが、兵庫県にも安保氏の末裔がおり、秋田県鹿角からやってきたとも。横瀬にいた安保氏は、東北から来たのだろうか?
後、丹生を求めた丹党は金の長者伝説を残すこととなった。
武甲山が鉱山資源の金のなる木に変わることを、中世の武将たちも想像していたのだろうか・・・
鹿角市では最も有名な巨大な炭鉱「尾去沢鉱山」がある。
だが、金鉱脈を豊富にもつ炭鉱の歴史は幕を閉じる。かつては奥州藤原氏、長者伝説が生まれた繁栄の地は、内乱により九戸政実とともに、大里修理も、南部藩(現:盛岡)にて処刑されて終わる。
そのお墓は、なぜか、宮城県の栗原市に眠っている。
蝦夷がいた地、だからなのか。
歴史は、何度も繰り返されてきた。
奇しくも仙台で出会った横瀬郷の歴史は、「会わされた」としか思えない現実の方が歴史より勝っている。
誰かが記さねばならない先祖のルーツを受け取らねば、鎮魂しきれないほどの歴史の重みがあることを、その村の誰かが知る運命なのかもしれない。
しかし、それは、再開の喜びだった。
これからも、安保氏探訪は続けていく。