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第45回 釈尊の悟り⑬ 二種の観察(物質的領域・非物質的領域・消滅)

 現行仏教では、世界は欲界・色界・無色界の三界(さんがい)に分類され、三界はさらに細分化され、複雑な世界観を形作っています。

 複雑すぎるほど細分化されているのに、不思議なことに、三界には、阿弥陀如来の西方極楽浄土等、無数にあるはずの浄土世界は全く含まれていません。

 仏教の創始者である釈尊自身は、世界を物質的領域・非物質的領域・消滅の三つの領域に分け、シンプルに説いていたことが、その直説を記録した最古の経典「スッタニパータ」に記されています。
 「第三 大いなる章 十 二種の観察」の、「物質的領域・非物質的領域・消滅」に言及した部分が、それに当たります。

 どういう内容なのか、当該部分の現代日本語訳を、「ブッダのことば」(中村元訳 岩波文庫)から引用して紹介します。

 《前文 修行僧たちよ。「また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?」と、もしもだれかに問われたならば、「できる」と答えなければならない。どうしてであるか? 「物質的領域よりも非物質的領域のほうが、よりいっそう静まっている」というのが、一つの観察(法)である。「非物質的領域よりも消滅のほうが、よりいっそう静まっている」というのが第二の観察(法)である。このように二種(の観察法)を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。
 すなわち現世における「さとり」か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。
 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさら にまた次のように説かれた。》

 《754詩 物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、消滅を知らないので、再びこの世の生存に戻ってくる。》

 《755詩 しかし物質的領域を熟知し、非物質的領域に安住し、消滅において解脱する人々は、死を捨て去ったのである。》

 「物質的領域」、「非物質的領域」、「消滅」と抽象的な表現が続き、何を説いているのか判然としません。

 しかし、これらをそれぞれ、「物質的領域=宇宙=この世」「非物質的領域=あの世」「消滅=ニルヴァーナ(涅槃)」と置き換えて解釈すれば、説法の内容が明瞭に理解できます。

 物質的領域とは、文字通り、物質によって万物が形成されている世界のことです。
 夜空に広がる宇宙、或いは限定的に地球のことを言っていると考えられますが、最新の宇宙理論がその存在を予言する、マルチバースが含まれている可能性もあります。

 非物質的領域とは、物質ではない実体によって全てのものが形成されている世界のことで、「あの世」という一般名称でその存在が説かれている、地獄界・修羅界・天界・浄土世界等の世界を総称します。
 臨死体験者が、肉体を離れた後も、肉体と全く同じ姿形をした自分自身がいたと共通して証言しているように、物質ではない何物かで万物が形作られている世界のことです。

 物質ではない実体とは何か?という疑問が残りますが、スピリチュアルの世界で幽体(ゆうたい)とか霊体(れいたい)と呼んでいるもの、或いは、仏教の世界で意成身(いじょうじん)とか意生身(いしょうしん)という名称で呼んでいるもの、それらが該当するのではないかと思います。

 映画「アバター」や3Dのテレビ画面で実現されていた、リアルな立体画像を思い浮かべて下さい。

 般若心経のサンスクリット原文である「法隆寺貝葉写本」には、「意界(マノー ダートゥー)」という言葉が出てきます。

 玄奘を始めとする全ての翻訳者は、この原語を、「意識界(マノー ヴィジュニャーナ ダートゥー)」と修正して翻訳しています。
 しかし、この「意界」こそが、釈尊の説く非物質的領域を表わしている言葉ではないかと私は思います。

 消滅は、「第五 彼岸に至る道の章」の1094詩に、《いかなる所有もなく、執着して取ることがないこと、・・・ これが洲(避難所)にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死との消滅である。》とあるように、ニルヴァーナ(涅槃)そのものを表わします。

 ニルヴァーナ(涅槃)は、変化するものが何もない、恒常の世界です。
 形のあるもの(=変化するもの)が何もないので、何かを形作る実体もなく、「識(しき)」だけが存在する、平安・静寂・清浄・不変・不死の世界です。

 無上正等覚を得て仏陀となった釈尊は、覚知した諸世界を、「この世」と「あの世」と「ニルヴァーナ(涅槃)」の、三つに区分して説いていたのです。

 この三区分を、無上正等覚を得ていない後世の弟子達が、頭の中での思索だけで、細分化された複雑な三界に解釈改教したために、仏教が複雑怪奇なものになってしまったのではないかと私は思っています。

 釈尊の三区分に従って、754詩と755詩を分かりやすく書き換えると、次のようになります。

 『754詩 この世に生まれる全ての生存者(人間・餓鬼・畜生)と、あの世に暮らす全ての住人(天界・修羅界に暮らす神々・菩薩、浄土世界に暮らす善人、地獄界に暮らす悪人)は、ニルヴァーナ(涅槃)を知らないので(=輪廻の流れから脱していないので)、死んだ後、再びこの世に生まれ変わる。』

 『755詩 しかし、この世の生存中に(世界の)真理・真相を熟知し、あの世の生存中に善業(ぜんごう)を積み、ニルヴァーナ(涅槃)に解脱する(=輪廻の流れから脱する)人々は、二度と死ぬことがないのである。』

 日本の仏教界の中には、極楽浄土に往生することを、「成仏する」と表現して、あたかもニルヴァーナ(涅槃)に到達したかのような印象を与えていますが、それは間違いです。

 天界や浄土世界のように、快適・快美・ゴージャスな一見理想的に思える世界も、一時的な避難所にすぎず、そこに永久に留まることはできないというのが釈尊の教えなのです。

 「スッタニパータ」や「法隆寺貝葉写本」を読んで分かることは、人間は、アートマン(我)という主体(本体)の上に、幽体とか霊体と呼ばれる服を着て、更にその上に、肉体というオーバーコートを着ている存在だということです。

 言い方は悪いかもしれませんが、人間は、二重の囚人服を着せられて生きている存在なのです。

 肉体というオーバーコートを着て生きなければならない世界(この世)は、性欲・食欲・睡眠欲等の諸々の欲望に苦しみ翻弄される過酷で厳しい世界であり、服だけで過ごせる世界(あの世)は、(地獄を除けば)過ごしやすい快適な世界であり、服をすべて脱ぎ捨てて過ごせるニルヴァーナは、最高に素晴らしい世界だということを、二種の観察は説いているのです。

 釈尊が出家修行者に向けて説く仏教は、人間はなぜ苦の原因となるオーバーコートや服を着ているのか、どうすればそれらを脱ぎ捨てることができるのか、について教えているのではないかと思います。

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