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第44回 釈尊の悟り⑫ 死にゆく者が、たどる道!

 人間は誰でも、生まれてきたからには、必ず死ぬ運命にあります。生きながらにして仏陀の境地に達した釈尊でも、例外ではありませんでした。

 では、死んで肉体が滅びた後、どうなるのでしょうか?

 最近は、死んだら全てが終わり、即ち、人生は一度限りと考える人が多いようですが、仏教では、悟りを得て仏陀の境地に達しない限り、永遠に「六つの世界=六道=地獄界・餓鬼界・畜生界・人界・修羅界・天界)」のどれかへの生まれ変わり死に変わり(=輪廻転生)を繰り返すと説いています。

 釈尊の直説を記録した最古の仏教経典「スッタニパータ」にも、輪廻転生に関する教えは、説法のベースとして、至る所で展開されています。

 中でも注目すべきなのは、地獄に転生(転落)するケースを説いた、「第三 大いなる章 十項 コーカーリヤ」です。

 他の五道(餓鬼・畜生・人・修羅・天)への転生については、わずかに触れられるか(人・天)、全く触れられないか(餓鬼・畜生・修羅)なのに対し、地獄への転生(転落)についてだけは、かなり詳細に説かれています。

 出家修行者や在家信者を相手にした説法なのに、地獄の様相や刑罰の様子を詳細に説いているということは、人間がいかに地獄に落ちやすい存在であるか、そして、地獄への転生(転落)だけは絶対に避けなければならないと、警鐘を鳴らすものだと言えます。

 この「十項 コーカーリヤ」は、一般には、「仏の顔も三度」の説話の元になった話として知られています。

 修行僧コーカーリヤが、釈尊の十大弟子に挙げられるサーリプッタ(舎利弗)とモッガラーナ(目連)の二人を「彼らには邪念があり、悪い欲求にとらわれています。」と誹謗中傷し、釈尊が「まあそう言うな。彼らを信じなさい。彼らは温良な性の人たちだ。」と聡(さとし)たのに、さらに同じ誹謗中傷を二度繰り返し、それが原因で退出後に体中に腫物(はれもの)が吹き出し、ついに死に至り、地獄に転生(転落)するという話です。

 この説話には、二つの教えが含まれています。

 一つは、「善人・聖者」と呼ばれるような立派な人に対する誹謗中傷はいかに重大な悪業(悪因)をつくるか、そして、それに対する結果はいかに過酷なもの(苦果)になるか、という典型的な自業自得(悪因苦果)の教えです。

 もう一つは、死後にたどる道は人生のどの瞬間に決まるのか、についての教えです。

 コーカーリヤは、釈尊の弟子の一人として教えに従い、修行に励み善業(善因)を積み重ねてきたはずです。

 そのコーカーリヤが最後に地獄に落ちたということは、死後にたどる道は、生前に積み重ねた善業(善因)と悪業(悪因)の差し引き総決算で決まるのではなく、死ぬ間際の心の状態に応じて決まる、ということを示唆しています。

 人間は、誰しも失敗・後悔(悪業)や成功・歓喜(善業)を繰り返して生きているものです。
 しかし、最晩年には善なる心の持ち主となり死を迎えるよう努力しなさい、ということを教えているのだと思います。

 宗教の存在意義は、そこにあるのです。
 
 六道には、阿弥陀如来が造営した、極楽(極楽浄土)という名称の世界は入っていません。他の諸如来が造営した浄土世界の数々も、同様に、入っていません。

 しかし、スッタニパータの「第二 小なる章」の404詩に、「死後に、自ら光を放つという名の神々のもとに赴く」という一節があります。
 この文章が、阿弥陀如来の極楽浄土や他の諸如来の浄土世界の存在を、暗示しているのではないかと思います。

 阿弥陀如来は48の誓願を立てて極楽浄土世界を造りましたが、第18願で「ただ五逆と誹謗正法を除く」と、五逆(ごぎゃく=母殺し、父殺し、阿羅漢殺し、仏身への傷害、サンガの分裂)を犯した者や正法(しょうぼう)を誹謗する衆生の入国(極楽往生)を明確に拒否しています。

 聖者や正法を誹謗中傷することは、非常に大きな罪過(悪業)となるのです。

 恥ずかしながら、私は、スッタニパータを読むまでは、地獄・極楽は、衆生救済を説く大乗仏教が興隆した後に成立した概念だとばかり思っていました。

 しかし釈尊自身が説いていたことを知り、地獄・天国・極楽は、世界宗教を創始した聖者が共通して説いていた、実在を前提とした概念だと改めて認識しました。

 現在世界中で流行・拡散しているSNSの世界では、誹謗中傷や虚偽情報(フェイクニュース)の発信が日常的な出来事になっています。

 軽い気持ちで発信しているのでしょうが、他人を傷つける軽はずみな行為(悪因)が取り返しのつかない重大な結果(苦果)を招くことに、もっと思いをはせるべきだと思います。


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