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第47回 釈尊の悟り⑮ 二種の観察「安楽と苦しみ」
前回(第46回)、二種の観察「真理と虚妄」について取り上げました。今回は、その次に説かれる「安楽と苦しみ」について考えます。
スッタニパータの「第三 大いなる章 十二 二種の観察」に説かれる一節ですが、前回(第46回)の「真理と虚妄」の語句を「安楽と苦しみ」に入れ替えて、完全な悟りに達した者(聖者)と迷える衆生(道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者)との認識の違いについて説いています。
まず、当該個所の現代日本語訳を、「ブッダのことば」(中村元訳 岩波文庫)から引用して紹介します。
《前文 修行僧たちよ。「また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?」と、もしもだれかに問われたならば、「できる」と答えなければならない。どうしてであるか?『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者が〈これは安楽である〉と考えたものを、諸々の聖者は〈これは苦しみである〉と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』・・・これが一つの観察(法)である。『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者が〈これは苦しみである〉と考えたものを、諸々の聖者は〈これは安楽である〉と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』・・・これが第二の観察(法)である。このように二種(の観察法)を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。・・・すなわち現世における〈さとり〉か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらに次のように説かれた。》
《759詩 有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく愛すべく意(こころ)に適(かな)うもの、・・・》
《760詩 それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると一般に認められている。またそれらが滅びる場合には、かれらはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。》
《761詩 自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。(正しく)見る人々のこの(考え)は、一切の世間の人々と正反対である。》
《762詩 他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。無智なる人々はここに迷っている。》
《763詩 覆われた人々には闇がある。(正しく)見ない人々には暗黒がある。善良な人々には開顕(かいけん)される。あたかも見る人々に光明のあるようなものである。理法が何であるかを知らない獣(のような愚人)は、(安らぎの)近くにあっても、それを知らない。》
《764詩 生存の貪欲(とんよく)にとらわれ、生存の流れにおし流され、悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚(さと)りがたい。》
《765詩 諸々の聖者以外には、そもそも誰がこの境地を覚り得るのであろうか。この境地を正しく知ったならば、煩悩の汚(けが)れのない者となって、まどかな平安に入るであろう。》
この世での人生で我々人間は、五感(眼・耳・鼻・舌・身)或いは六感( 眼・耳・鼻・舌・身 ・意)に心地よく響き、快適・甘美に感じ、魅了される現象・事物を追い求めることが、安楽をもたらす善なる行動だと信じています。
しかし、そうして手に入れた、快感・快楽をもたらす諸々の現象・事物は、永遠の安楽(=ニルヴァーナ)に通じるものではなく、むしろ逆に、苦しみを作り出し、生存の流れ(=輪廻)を加速する原動力となるものだと釈尊は説いているのです。
現生での快感・快楽をもたらす現象・事物は執着をもたらし、執着をもたらす現象・事物は苦しみをもたらす、という論理です。
最高の悟りに達した聖者(=仏陀)と、迷える衆生(道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者)の、「安楽と苦しみ」に対する認識の違いを分かりやすく(?)書き換えると、759詩~765詩は次のようになります。
《759詩 六感(眼・耳・鼻・舌・身・意)の対象となり脳に快感・快楽をもたらす、この世に存在する限りの、ありとあらゆる現象・事物、・・・》
《760詩 それらの「快感・快楽」を享受している時、迷いの衆生は、「安楽」であると感じる。またそれらの「快感・快楽」が失われる時、かれらは誰もが、「苦しみ」であると感じる。》
《761詩 自身の肉体が死に至ることが「安楽」(の達成)である、と諸々の聖者(=仏陀)は考える。聖者(=仏陀)の「死は安楽である」との認識は、迷える衆生の「死は苦しみである」との認識とは正反対である。》
《762詩 迷える衆生が「安楽」(=快感・快楽に満ちた人生)であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。迷える衆生が「苦しみ」(=死)であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。容易には理解できないこの真理・真実を、ありのまま(如実)に見なさい。無智なる人々(迷える衆生)は、この真逆の真理・真実に困惑している。》
《763詩 (無明・無智に)覆われた人々には闇がある。迷える衆生の周囲は真っ暗闇だ。悟りを希求する人々には、明るく照らされた世界が明かされる。あたかも、正常な視覚を持つ人々に、美しい景色が認識されるようなものである。「真実の風景・存在」が何であるかを知らない迷える衆生は、ニルヴァーナの近くに立っていても、その存在に気づくことはない。》
《764詩 「死にたくない、まだ生き続けたい」、という生存の貪欲(とんよく=欲求)にとらわれ、輪廻の流れにおし流され、悪魔の領土(=諸々の欲望が支配する領域)に入っている迷える衆生には、この真理(=安楽と苦しみ)は実に覚(さと)りがたい。》
《765詩 諸々の聖者(=仏陀)以外には、そもそも誰がこの境地(=安楽と苦しみに対する正しい認識)を覚り得るのであろうか。この境地を正しく知ったならば(=瞑想修行を成就したならば)、煩悩の汚(けが)れのない(清浄な)者となって、まどかな平安(=ニルヴァーナ)に入るであろう。》
出家修行者に向けて、「死は恐れるものではなく、希求すべきもの」、だと釈尊は説いているのです。