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「どんな仕事をするか」「どんな人と付き合うか」「どんな方と結婚するか」、、、そんな悩みはつきませんが、その半分は自分自身を知ることで解決いくことが多いです。反対に言えば、自分のことがわからないことが何事もうまくいかない原因のひとつと言われます。「メモの魔力」という本でも自分を知るための自己分析1000の質問などが流行っています。

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https://www.amazon.co.jp/メモの魔力-Magic-Memos-NewsPicks-Book/dp/4344034082

1000問は多いと思うかも知れませんが、自分の人生ですので、自分のことを知るために時間を使っても無駄ではないですし、自分を知らないから成功しないということなのです。

これからの時代は平均的な人よりも1つ突出した人が必要とされる。だから自分の弱みをなくすのでなく、強みを伸ばす方がよいと言われ、自分の強み上位5つを知ることができる「ストレングスファインダー」も流行っています。

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https://www.amazon.co.jp/さあ、才能-じぶん-に目覚めよう-新版-ストレングス・ファインダー2-0/dp/4532321433

人生において、本当の幸せ、生まれてきてよかったという幸せになるには、人間、自分というものがどういうモノなのかわからないと幸せになれません。

人間、自分はどういう存在なのか。本当の幸せは自分を知るところから始まります。

昔から「汝自身を知れ」と昔から言われています。


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そのように理解すると、自分のことは自分が1番知っていると思いますが、実はよくわからないのが自分なのです。「自分のクセを言ってみて」と聞くとなかなか出てこないのではないでしょうか。「なくて7クセ」ということわざがありますが、 少しはクセを持っているものです。

ではどうして自分のことはわからないのでしょうか。

それは、近すぎるからです。

あまりに近いとわからないですよね。たとえば、自分の目で自分の目を見ることできないですよね。

では、どうすれば近いものを見ることができるのでしょうか?

それには、鏡のお世話になります。

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この世の中には3枚の鏡があると言われています。

その3つとは、他人鏡、自分鏡、法鏡です。

まず、他人鏡というのは、他人から見た自分、他人の評価によって自分を知る方法です。親からは大人しい子と言われている。友達からは面白い人と言われているなどです。鏡を使う際に最も大事なことは、その鏡が正しく映すかどうかです。では、他人鏡は本当の自分を映すのでしょうか。

答えはNOです。なぜなら、相手の都合によってその評価はコロコロ変わるからです。
ある家に泥棒が入った。家には奥さんしかいない。奥さんが驚いているところにたまたま警察官が通りかかり気付いて家の中に入ってきました。そのとき、警察官への評価は、奥さんから見ると正義の味方、泥棒から見ると都合の悪い、天敵なわけです。同じ1人の警察官でも、評価する人の立場によって変わるのです。学校の先生や上司、親、友達に対して自分がどう評価するかは、自分の都合で決めていますよね。

つまり、他人鏡は相手の都合によって、コロコロ変わるものだからあてにならず、自分のすがたを正しく映さないのです。

この他人鏡にきれいに映りたいと鏡を磨くことに振り回されているのが私たちですが、みんなから嫌われることもなければ、全員から好かれることはありません。

一休が「今日ほめて 明日悪くいう 人の口 泣くも笑うも ウソの世の中」と言っているように、そんな他人の評価に一喜一憂しなくてもいいと思うと少しは生きやすくなるかもしれないですね。

次に自分鏡です。

自分鏡とは自分で自分を評価することです。私たちは、倫理的良心で自分はいい人か、悪い人か判断します。困っている人を助けてあげた、席を譲ってあげた、遅刻してしまった、怒らせてしまったなどで自分の思っていることや行いを振り返って自分を評価します。

果たしてこれは、本当の自分を正しく映しているのでしょうか、、、

これもNOです。

なぜなら、欲目がはたらくからです。自分のことはやっぱりかわいいので良くみてしまうのです。このうぬぼれ心をお釈迦さまは、くわしく「七慢(しちまん)」と教えられています。

七慢
1、慢(まん) 2、過慢(かまん) 3、慢過慢(まんかまん)
4、我慢(がまん) 5、増上慢(ぞうじょうまん)
6、卑下慢(ひげまん) 7、邪慢(じゃまん)
1、慢
「慢」とは、自分より劣った相手をバカにする心です。
例えば学校のテストでいえば自分より点数の低い人を見下す心です。
それは当然だろうと思えますが、相手を踏みつける恐ろしい心だとお釈迦さまは教えられています。

2、過慢
「過慢」とは、自分と同じ程度の相手なのに、自分のほうが優れていると威張る心をいいます。テストの点が同じであっても、「テスト当日にちょっと体調が悪かっただけ。本当はオレのほうが上だ」とうぬぼれる心です。

3、慢過慢  「慢過慢」とは、間違いなく自分よりも相手が優れているのに、素直にそうと認められず、自分のほうが上だと思う心です。例えばテストの点数が相手が上だとすると、「あいつは高い金払って塾に通っているからだ、条件が同じならオレが上だ」と思ったり、「あいつは勉強はできるけど、人としての礼儀が全然なってないじゃないか。その点、オレは人間的にもまともだから」などと、自分に都合のいい勝手な理由を見つけて相手の上に立とうとする心です。

4、我慢
「我慢」とは、自分の間違いに気づきながら、どこまでも我を押し通そうとする心です。
2人の男が床にある黒いものを指さして「虫だ」「いや黒豆だ」と言い争っていたところ、動きだしたので虫だとハッキリしました。ところが黒豆だと言っていた男は「這っても黒豆だ!」と言い張りました。
これを「我慢」といいます。自分が悪いと分かっていても我慢のせいで謝れない。一言ゴメンと言えば済むものを、素直になれず自分でもバカだと思いながらどうしようもできない心です。

5、増上慢
「増上慢」はさとりを開いてもいないのに、さとったとうぬぼれる心と言われています。

6、卑下慢
「卑下慢」とは「私ほど悪い者はおりません」「まだまだ未熟者ですが」と深々と頭を下げながら「どうだ、こんなに頭の低い者はいないだろう」とニンマリする心をいいます。「実るほど頭の下がる稲穂かな」(立派な人ほど偉ぶらず腰が低い)といわれ、そんな人を私たちは尊敬しますが、そんな腰の低い人でもうぬぼれ心から離れ切ることはできないのです。

7、邪慢
「邪慢」は、とんでもないことを自慢する心です。
窃盗犯が機敏さを誇り、人殺しは残虐ぶりを自慢し、自堕落な生活している人が自分のだらしなさに胸を張る。
試験でビリだった人が零点の答案をひけらかす、と聞けばアキレましょうが、「こんな紙切れでオレの価値が測れるか」と、本人は開き直って鼻高々な心です。

つまり、自分はかわいいので、自惚れという欲目が入り正しく見れないのです。

では、自分を正しくうつす鏡はあるのでしょうか。

それが最後の法鏡と言われます。

法鏡とは何か?

お釈迦様がお亡くなりになられるとき、弟子の一人がお釈迦様に尋ねました。「今までお釈迦様はたくさんのことを教えられましたが、一言でいえば何を教えられたのでしょうか。」お釈迦様は、「汝らに法鏡を授けるであろう。」

つまり、仏教とは、法鏡ということなのです。法とはありのまま、ありのままの私のすがたをうつす鏡ということです。仏教をきけば何がわかるのか、自分のすがたです。仏教をきけばきくほど、いままで気付かなかった自分のすがたが知らされます。

「仏道を習うは自己を習うなり」と言った人もあります。

では、その法鏡にうつる私のすがたとは、どんなすがたをしているのか。またの機会に書きたいと思います。


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