「自分も人も大切にする」が一部の人たちだけのものにならないために。
今週はわりと負荷がかかる1週間だった。
何回話し合いをしただろう。何回人の気持ちやニーズに目を向けただろう。事実と感情を切り分けるために記録もたくさんとった1週間だった。
続くとさすがに疲れるので、今週は温泉やアイス、ポテチ、漫画、アニメ、カフェ、ラーメンとたくさん自分を甘やかした1週間でもあった。
(こうやって挙げてみるとびっくりするくらい甘やかしてる。笑)
でも、このような葛藤がたくさんあるときにこそ、気づきや自分の器を大きくしてくれる何かがあるはず。
最近考えていること〜人ってこんなに多様なんだ〜
最近、改めて人ってこんなに多様なんだなぁと思う。
能力も多様、価値観も多様、バックグラウンドも多様。
ついつい今までの経験に当てはめてわかったような気になってしまうけど、よく観れば全然知らなかったことに気づく。
そして、そのような多様な人たちがいる中で、「自分も人も大切にする」民主的でインクルーシブな場を育んでいくことは本当に難しい。
「自分も人も大切にする」が一部の人のためだけの言葉であってはならないと思う。
何かトラブルがあったら、
家庭のせい、学校のせい、子供の発達課題が原因。
そのように誰かのせいにしていく暴力的な世界観では、最終的に社会的弱者と言われるような人たちがその責任を引き受けざるを得なくなり、苦しんでいく。
その弱者はサービス化した学校の教師だったり、発達課題ががあるとされる子や、その親だったりする。
僕には、そのように切り捨てられた人たちと、世の中で起こっている悲惨な事件が繋がっているように見える。
インクルーシブな社会をつくっていくためには、まず学校がインクルーシブであろうとすることが大切なんだと思う。
含んで超える
僕は、そのような人たちも含んで超えていきたいと思う。
「民主的でインクルーシブな場」
これはたどり着くようなものではないのかもしれない。それを目指すことで生まれる苦しみがあるような気もしている。
民主的でインクルーシブであることを目指しているはずがいつのまにか暴力性が見え隠れする。
「○○が苦しんでいるのは▼▼のせいなんじゃないか」
大事なことは山登りの山頂をめざすようなことではないんじゃないかと思う。
日々、自分自身の足腰を鍛えたり、マインドを整える中で、途中までしか登れなくてもそこで見れた景色に満足して帰れるような、落ちていた石に美しさを見出し、お土産に持って帰るような。そのような在り方が大事だなと思う。
大事なのは、その場が「自分も人も大切にする場」になってるかどうかジャッジするのではなくて、その場にいる人たちがどんなときでもそう在り続けようとする姿勢なんだと思う。
目指さないわけじゃないんだけど、大事なのは挙げた旗ではなくて、それを持っている人自身であるということにいつでも戻って来れること。
なるようにしかならない。起こったことをどう解釈するかは自分自身。そして、一度解釈したことも再解釈して新たな物語に生まれ変わるかもしれない可能性を秘めている。
起こったことを責めるのではなく、その場に生まれてきた気持ちや意志を含んで、共に超えていけるような足腰と心を育みたい。