🐞スタッフ不定期コラム🐞「岡野八代『ケアの倫理──フェミニズムの政治思想』を読んで 」
仕事も、生きることも、理不尽なことが多くって「じゃあ、私の気持ちはどうなっちゃうの?」と思わされることが度々あるし、きっと、その気持ちを私に向けてきた人たちもいることだろう。ずっと小さいときから、人と人は支え合って生きていこうと言われてきたけれど、合理化のためなのか、道徳のためなのかはうやむやにされてきたような、「道徳の時間」にそういうことは言われてきたけれど、結局、合理的にものごとを成していくための合言葉になってしまったような気がしている。
そういったうやむやにされてきたような気持ち、「気持ち」というものの総体を現実や社会の中に位置づける方法を探すために私はアートセンターで働いている。このことはきっと新たなる現実や社会との折り合いの付け方を示すから、アートという社会の縮図のような営みの中でたくさんの実験をしたい。
けれども、やっぱり生きている限り「じゃあ、私の気持ちはどうなっちゃうの?」と思うことは多いです。
「じゃあ、私の気持ちはどうなっちゃうの?」という言葉は、見返りを求める言葉とも捉えられるし、気持ちなんて誰にもどうにもできないから、時たま癇癪やヒステリックの部類の声だとみなされる。私たちの気持ちや声が社会生活を送るためのあらゆる制度設計のなかから漏れてきたからこそ、この声は議論の俎上に上げられなかった。
本書はそれまでの男性が築いてきた社会をどのように超克できるか、という課題に対して、第二波フェミニズムのラディカルフェミニストたちの研究をもとにケアの倫理から解決の糸口を見出そうとする。
特に本書において一節を割いて丁寧に言及されるキャロル・ギリガン『もうひとつの声でー心理学の理論とケアの倫理』は1970年代における米国の中絶をめぐる女性たちへインタビューを行う内容のものである。米国で中絶が許されるようになったのは1970年代からで、それまで厳格なキリスト教の家父長的な制度下で「じゃあ、私の気持ちはどうなっちゃうの?」という声はかき消されてきたのである。それは女性の痛みや気持ちだけをかき消すことに留まらず、誰しもが「じゃあ、私の気持ちはどうなっちゃうの?」と発することさえも許さない揺るぎない「正義」が跋扈し続けることを許容するのである。つまり、気持ちや声の問題は政治に直結する。それゆえに第二波フェミニズムにおいて生まれたのは「個人的なことは政治的である」という非常に有名なスローガンである。
本書を貫くのはこれまでの男性中心に編まれてきた哲学や思想からなる社会をフェミニストたちの言説によって、根幹を揺るがし、刷新しようとするスリリングさである。道徳というともすれば曖昧な言葉を丁寧にときほぐし、間主観的なこの言葉をケアの倫理のものへと引き寄せ、政治のなかへ組み込む。執筆にコロナ禍を経験した筆者や、コロナ禍が何をもたらしかをまだよく覚えている読者である私たちは、ケアの倫理というものが今、私たちが求めているものだということを薄々どこかで感じていたのではないだろうか?
何かが大きく変わろうとしている。強者によって虐げられてきたものたちの怒りやたくさんの行動の蓄積によって到達した地点であることは疑いないが、それでも、これまでのモデルを覆してみて新しいことを試すときの胸の高鳴りを感じざるにはいられない。私たちは今、とても大きな挑戦と転換の最中にいる。
このコラムを執筆したのは・・・・