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娯楽としての啓発


セミナー、講習会、ワークショップに参加します、しました!と宣伝する人。
なんだか良い人、知的で聡明な人の印象を与える。
いや、そう見せる為に参加行為を宣伝する残念な人もいる。
また主催する方も、私たちはこんな良いイベントをしましたよ的宣伝をする。
主催する企業・自治体の評価加点数、予算額は中々のものだ。

実は同和関連への予算が減って来ている昨今、LGBTなど新たな分野の啓発系イベントが大いに流行っており、開催・参加することが目的化する事が多い。
しかしこの流行りもしばらくすれば飽きられ、必然的に廃れるのが運命だ。

本来必要なのは、啓発ではなくこの先の結果だったはず。
それは何?
一部の「熱心な人たち」のアンケートの「数字」か?
相談件数、通報の「減少数」か?

あらゆる啓発系、感動系の商業にはブームがある。
人々の好奇心だけでなく正義感を餌に、いかさま講師が当事者の代表としてフツーに下らん話をし、儲ける。
その【当事者の属性】だけで同情による社会的地位を得、あたかも当事者の代表のように宣伝してまわる。
これに感動した多数派の人々はなんとも気持ちよくなり、理解したつもりになるが、本質を知らぬままだ。
忘れた時に、知的で聡明だと期待されたあなたに当事者から相談が寄せられる時、ああ、あの時流行ってた話題ですねと、眠たそうに返しますか。

自発的なお勉強、啓発、さらに炎上系の情報誌、ツイッターのヘイトスピーチ、これは基本的に娯楽である事に違いはない。
人には、何か良いことをしたい本能と残酷なことをしたい本能がある。感動的なドラマに共感して涙するのは、残酷なことをして快感を得るのと同じくらいの快感を得られる。

物事の本質を知るというのは、本来、なかなかに辛くて気持ち悪いものなのだ。

涙した後気持ち良く感じたのであれば、それはやはり娯楽だ。

確認したい。
このテーマはブームではない。
生きている人の悩みを、ブームで盛り上げたり忘れ去る事の罪。
何が結局迷惑なことか。善のつもりが悪になること。
気持ち良くなってすぐ忘れるミーハーな哲学好きな非当事者は、立ち止まって無になろう。
あなたは最初から知る必要もなかったのだ。

そう。
それはお勉強中毒、啓発中毒。
全てがバーチャルの、娯楽である。
当事者問題は、もっと深くてグロい。
しかしその溝に失望せずに長い目で見守り、具体的に動く。
そんな人こそが、芯のある人なのです。

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