本来持っているはずの感覚
やたら数字が好きな人がいる。
判断に迷いそうな時に数字を欲しがる。数字を見せられたら、安心する。
そんな人がいる。
特に女という生き物は、
出産という大イベントを境目として、人生の大きな変化(あるいは取り消し)を受容しないといけなくなる。どんなに頑固でプライドの高い女であっても、ある日突然我が身から分離した「赤ちゃん」という生命体の「お母さん」の立場になる。
生死を賭けた出産の瞬間から数年間、24時間滅私奉公の保護者となるのだ。これは大変な事態。屈服。降参。
赤ちゃんは怪獣のような生き物。何一つ言うことをきかない。
泣き声は爆音のため、公共施設におちおち連れていけない。おむつはしょっちゅう替えないといけない。
首の座らない赤ちゃんを抱っこしたままのお母さんは自分のトイレにも行けない。ミルクをあげても、泣く。おむつを替えても抱っこしても泣く。
一体、どうしたらよいのだ。
大人になってからこれほど自分の無力さに打ちのめされることがあったとは。もうまるで、自分も赤ちゃんにリセットされたようなものだ。
迷った時にすがるのは判断基準。わかりやすい体験談、情報、宗教だ。
中でも数字は理解しやすい。母体、赤ちゃんの体重、ミルクの重さ、授乳前後の赤ちゃんの体重までも。いちいち赤ちゃんの体重を記録して一喜一憂する新米母親。真面目すぎる新米お母さんは、目の前の赤ちゃんの様子よりも、一見科学的に見える謎の数字に頼ってしまう。
ダイエットに凝りすぎる人も、立派な数字中毒。
口にする食べ物のカロリー計算を怠らない。食べ物を見る時、カロリー計算をついついしてしまう。もはや、味などどうでもよくなってくる。ゼロカロリーの甘味料は苦みがあっても良し。
カロリーが少ないものこそヘルシー?カロリーを絶対悪としてみてしまう偏った思想。
すべてはカロリー計算だ。食べてしまったカロリーと、消費したカロリーを計算し、一喜一憂する。
その愚かさに気づかないし、そもそも気づきたくない!数字に支配される状況は、なんだか苦しいが気持ち良いものなのだ。
数字を妄信すると、当然ながら感覚が鈍る。
本来、人は食べ過ぎた時、ああ私は食べ過ぎたんだと体が認識できたはずではなかったか?
赤ちゃんは母乳・ミルクを飲みすぎたら疲れて寝る。
赤ちゃんが空腹を感じたら起きて泣くように、大人も同じく、お腹が空いた時に必要な分だけ食すればよい。お腹がいっぱいになればご馳走様すればよい。義理で完食する必要なはい。
寒ければ服を着て、暑くなれば服を脱ぐ。快適に過ごせる場所に移動すればよい。なんなりと。
それが容易にできないサラリーマン的環境を強いられる人は、自分の快適度を【感覚】ではなくググった【数字】で確認しようとしてしまう。
今日は〇〇度だったから暑かった、今日の体重は〇キロだったから明日は摂食、〇時間しか眠れなかったので疲れている。
いいね!が〇件ついているtweetだから信用しちゃって、直感的にシェア。それがいかさまデータなんだかどうか、カンケーない、検証しない。
何せ、数字のインパクトに感動した直後なのだから、しらけるデータはいらん。
見たくない。めちゃダサい。
おかしくないですか?感覚を失ってませんか?
自衛のための情報リテラシーを、持ちたい。
本来、生き物には優れた感性があるはずなのだ。
そしてそれは無用に他人の評価を得て自分の心の隙間を埋めるためのものではない。
自分自身が安心して生活するための指標。安心のための指標があれば十分。
地味だが堅実な感覚。それは各々の感性しかない。
数字やデマに振り回されることなく、
自分は自分、わかっているのだから過剰な情報は要らない、というクールな感覚。
これを持てたら、きっとだいぶ楽になれるんじゃないだろうか。
個々の現実に勝る「指標」はない。