ガラスの映画館

 山の背中を越して、海が見える場所に僕は居た。透明な硝子板は、まるで映画館のスクリーンみたいに、あちら側で生きる人にとってはごく当たり前の日常を映していた。それを僕は、長い長い映画を見るみたいに眺めていた。この映画館は身の毛がよだつほどに、綺麗でホコリひとつ落ちてやしない。観客は病人臭さを纏わせた、死に損ないの僕ひとりだけ。今日、僕が思い切って、僕という絵本に『おわり』の三文字を付け加えても、ガラスの向こう側では、何も変わらず続いていく。僕という絵本が存在していた事なんて誰も気づきやしない。それはそれでなんか癪だから大事件の一つや二つ起こしてやろうか。濡れた雑巾を絞るみたいに、実行する勇気も出せたらいいんだけれど、そもそも死に損なった時点で出し切ってしまった。なら、ただただ、カミサマとやらが満足するまで生きるしかないんだろうか。
 僕は確かに、こう、なけなしの勇気と力をぎゅっと振り絞って後者の屋上から飛び降りた。運がいいのか悪いのか、植木に助けられて骨折で済んでしまったんだ。今はこんな冷たい映画館に閉じ込められているけどさ、生まれてからずうっと、クスリにも、自傷にも、手を出していないんだ。時々思い出したかのように、何かに操られているみたいに、大事に片付けておいた傷を毟るだけ。他人につけられたんじゃないんだよ。今ある傷は、呪いは、全部僕が僕にかけている。そんな自分に酔っているんだ。そうでもしないと、人の気を引けないし、僕は僕だと証明出来ないから。そろそろ、こんなバカみたいに子供じみたお呪いは終わりにしなくっちゃ。僕の隣にいるピエロがね、『ネバーランドはどこにもないんだよ。燃やさなきゃ。』って笑って言うんだ。そう、ここは、僕の思想世界で僕だけのネバーランドだったんだ。
 水分が飛んで乾燥した食パンみたいな天鵞絨の椅子から腰をあげて、己の存在を主張する色合いの箱を取り出す。空を切る音、少し遅れて軸木が燃える音。今目の前で、黄燐が燃えている。独特な匂いが鼻を突く。そのまま、重力に任せて落とす。もう一本、もう一本と繰り返して辺りを燃やす。すると、ピエロが突然狂ったように笑って叫んだ。
『ネバーランドよ、燃えろ!燃えてしまえ!子供でいられる時間はもうとっくの昔に終わっているんだ!さぁ、ほんの小さな幸せを得るために沢山の苦しみと悲しみを支払わなきゃいけない場所に行こう。大丈夫、すぐに慣れるよ。痛みも何もかも。ぜぇんぶ。』
一通り叫んだピエロは、ガクリと脱力してこちらを向いた。黄燐を吸い込んで、胸の奥が痒くて気管が狭まって苦しくてたまらない。朦朧とする意識の中で、ピエロはニタニタと気持ちの悪い笑みを浮かべて僕を見ていた。
僕はそのまま意識を手放した。

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