不都合な事実を直視して「私が間違っているかもしれない」と言えますか?
自分が固く信じていることに対して、「本当にそうなのだろうか?」と疑問を投げかけることが出来る人は多くありません。
それよりは自分が欲しいものだけを探し、「ほら、やっぱりね!」と誰かを指さして批判する人をよく見かけます。自分が正しいと信じて相手を批判する人の声は、批判される側の声よりも何十倍も大きい。
その根拠はどこにあるのか?
客観的なデータに基づいているのか?
それは本当に正しいのか、多方面から検証しているのか?
と問いかけたら、その人は怒り出すかもしれません。
世の中、大事なことは数字じゃないんだ、直感を信じるべきだと。
不都合な真実は無視され、解釈は塗り替えられる
わたしたちは不都合な事実を無視する傾向にあります。自分の信念と違う事実を突きつけられると、素直に過ちを認めるよりも、事実の解釈を変えてしまうという、なんとも都合のいい生き物なんです。
自分の信念(信じているストーリー)を否定されることは、自分という人間を否定されると同じくらいの痛みを伴うので、必死に自我を守ろうとするんですね。
心から恐怖に感じていることをあぶりだしてくれた本
昔から私にとっての恐怖は、シンプルで分かりやすいストーリーを(事実ベースではなく)感情的に取り上げて、誰かを一方的にバッシングする声の大きな人たちです。事実は捻じ曲げられ、正されることなく、無実の人がスケープゴートにされた事例は、歴史の中に数多く埋もれている。
自分の感情に基づく信念を、ちょっとわきに置いて、「本当にそれが事実なのだろうか?」「私が間違っているのかもしれない」と疑問を投げかける、これって本当に難しいことなんですね。
当たり前のように信じられてきた事実を「多方面から科学的に検証してみる」ことの大切さを扱った本を、この夏紹介されて読みました。英タイムズ紙のライターであるマシュー・サイド氏の書いた「失敗の科学」という本です。
本について話し合える人はいますか?
紹介してくれたのは、先月横浜からゲストハウスに来てくれた同年代の女性でした。彼女とは滞在中、途切れることなく語り合い、お互いに本を紹介しあいました。私が紹介したのはルトガー・ブレグマン著「希望の歴史」。この本も今回のテーマと重なる内容の本です。
彼女とはその後も本の感想や自分の考えを話たりしています。本のことについて話し合える人がいるというのは、とてもいいものですね。
私が感じている世の中の風潮や違和感をあぶりだしてくれた本でした。
自分は正しいと頑なに信じてしまう傾向は私にもあります。
そういう傾向を自分も持っているんだと意識し、「自分の方が間違っているかもしれない」という視点を持って、単純にものとごとを決めつけないようにしよう、と改めて自分に言い聞かせた今年の夏でした。