ジンくんのクリエイティビティ
以前公開された、BTS ジンくんの【The Astronaut】製作ストーリー。「Wootteoview: Wootteo’s observation log of Jin ‘The Astronaut’」。
最初に見た時、わたしはジンくんのディスカッションの進め方にかなり感動していたのだが、それは「相手を褒めてるなあ」とか「まず肯定して、それから提案するんだなあ」とか「正直に仕事の相手にエールを送るんだなあ」とか、表面的な言葉でしかまとめられなくて、もう一段、何が一番自分の琴線に触れたのか、それもびりびりびりと、いまいちはっきり自覚出来ないでいた。
わたしが一番ひっかかっていたのは、ジンくんが「たんすん(単純)」という言葉を、かなり何度も繰り返していたところにある。
その中でも特に、キャラクター「ウット」くんを作る部分。
クリエイターと何か一緒に共同作業をするときに、自分の中に「これじゃないんだよなあ」という思いがあっても、自分でデザイン画を描かない場合、相手の中から生み出してもらうしかない。
その時ジンくんは、相手がクリエイトしたものに対して、あるいは自分がクリエイトして欲しいものに対して、言葉を足して足して、情報をどんどん複雑にしていくのじゃなくて、
「単純」
を、繰り返し伝えていた。
ゴールを示して、
辛抱して、
相手が到達するのを
待った。
ふわふわと、もわもわと、実態のないイメージの雲の世界。共同クリエイトは、その中から、お互いに、「これは違った」「ここは違う」と、具体的になった不要部分を外して、コアを残していく作業にも似ている。
ふわふわの雲の中を、核心に向かってコミュニケーションで誘導していく作業。
「そうじゃない」「そっちじゃない」という時、どうしても言葉を多くして、いろんな言葉で、伝わっていないんじゃないかと思って、不安で、情報を、次々相手に飲み込ませようとしてしまう。どんどん「この道は違う」「なぜこの道が違うか」の標識ばかりたくさん立てて、ふわふわの雲の中をいらないものに対する情報でいっぱいにしてしまう。核心を説明しようとして、核心をいっぱいの情報でゴテゴテに覆ってしまう。
でも彼は、灯台の光だけをしっかり灯して、「ここ」ということだけを繰り返して、相手が自分のクリエイションの力でそこまで歩んでくれることを、クリエイターの力を信頼して、ちゃんと待っていた。
と、そういう風に見えた。
情報を過分に与えるんじゃなくて、
同じことを繰り返し伝えて、
待った。
それって、素晴らしくすごいことなんじゃないか?
ここまで書いて思い出した。
和楽器に鼓(つづみ)という楽器があり、大変に難しい楽器らしい。「よーっ、ポン」のあれですね。肩の上に担いで、片手で紐を絞り音程を変え、反対の手で鼓面を叩く。
あの稽古は、師匠はただ正しい音を一音出すだけで、弟子はそれを真似て音を出すだけで、師匠は何も言わないらしい。それを繰り返す、ただそれだけのレッスン。何年も。
ある時師匠が、弟子の音にこくりと肯く。それで初めて「今の自分は出来てたんだ」と分かるらしい。
違っているものにフォーカスしない、執着させない、情報を足さない、で、とにかく削いで行く。正しい音だけをいつも与える。いつも安定してゆらがず、明るく目の前にはっきりと見せ続ける。相手が自分でそこに至るのを、手出しせず、邪魔せず、見守る。
それが導く人の、ある素晴らしい一つのかたちで、
結局それが最短で人を到達させるのだろうか。
しかしそうやって到達した音は、確実に自分の音で、姿勢も、握り方も、呼吸も、動きも、そこまでの道のりも全部自分の体感で得たもので、他の人が奪いようのない、かつ「正しい音」だ。
師匠の方こそ、何があっても、一定のトーンで、相手の情報に惑わされず、誘惑されず、ぶれずに同じ音を出すって、そのことがまず簡単じゃない。いらいらしたり、落胆したり、感情的になったり、余裕がなかったり、自分の側にも個人的な事情がたくさんあるはずなのに、
クリエイションの要のジン君自身が、いつも、相手のアウトプットに対して態度が一定だったのが、そして言ってることが変わらなかったのが、そしていつでも信じて、相手が到達するのを待ち、「ファイティン」、そこに至る道を応援し続けるのが、
なんか、すごくかっこいい…
と、今日わたしは思っていた。
これを読んだ時、「当たり、外れから学ぼうとしても無駄だ」のところに非常に膝を打った。わたしは弓道をやったことがないけど、射的や輪投げや、そういう的当て的なことで、「ああん!さっきより右!」「もうちょっと下だ」とかの考え方で、的中率が上がることはなかった。「一投目よりちょっと右で、かつ二投目よりちょっと下で、三投目より左」とかやってると、どんどん精度が下がって訳が分からなくなっていく。
「必要なのはキャッシュを捨てることだったんだ…」。すでに放った矢を忘れる。毎回、打つべきところの中心を射抜くことだけにフォーカスする。毎回それだけを考える。それだけを繰り返す。そういうシンプルなことだったんだ。
子供を教育するときもそうだよね。例えば食事の時、「あれはだめ」「これはだめ」「肘はつかない」「姿勢良く食べる」「こぼさない」「くちゃくちゃしない」、だめなことは目に付くからすぐ指摘できるけど、
本当のゴールは、「これからあなたが大きくなって、どんな人と食事をする時も、そこにいる人たちと気持ち良く楽しい気分で食べられるように」、
それが伝わってなかったら本当の意味ではマナーを理解できないし、それが理解できていたら、必要なことは必要なタイミングで整理されて身につくだろう。
ジンくんの話で置き換えるなら、ジンくんは「単純」という「的」をいつも用意して、繰り返しプレゼンしてもらった。
でも本当のジンくんの目的は、「単純」なものを作ってもらうことではない。クリエイターは結局どういうプロセスを辿ったかと言うと、
「単純なものを作る」という意識の先、
キャラクター、
キャラクターを受け取る人(ARMY)、
になりかわって、
「ARMYが自分の側に置きたいと思えて、ジンくんを思う気持ちを、受け取り続ける容れもの」、
を生み出すことが仕事だったのだ。そして、クリエイター自身にその形に辿り着いてもらうまで、彼は方向だけをいつも指し示し続けた。
矢に、弓に、的になりかわるとはどういうことか。
エゴがなくなっていく、というようなことなのかもしれない。
弓の話は以下の様に続く。
エゴが抜けると、意識の力で現実を思い通りにしようとすることを止めると、意識よりもっと大きな存在が「自分」を適切に使い始める。日本にあるさまざまな「道」とは、エゴを手放していく過程らしい。弓道、華道、書道…。神道の神主さん曰く、そしてエゴが抜けて、自分の中の神性に近づいていくのだと。
「自分の力で、これを、こう変化させてやる」という力を、抜いて、抜いたままにして、一番良い状態で自分の能力を、たっぷりと大きく使える、というのが、彼の、今のエゴが抜けている状態なのかもしれない。それは、自分が「こうしてやろう」と思って想像通りのものを生み出すより、結果的には、自分が感心できるくらい大きな成果を生むのかも。そうやって彼は、新しい歌唱法を得たし、憧れの人と同じステージに立った。
「一番変わらない」と言われるジンくんが、わたし達に見せてくれる画面の裏側で、その内面をどれだけ変容させてきたか。ARMYたちから受け取ったものがどれだけ彼を変えたか。わたしは窺い知ることは出来るんだろうか。
しかし、「僕は君からこう感じた」、この動画の彼の状態が、ARMYたちが彼に与えた愛に対する彼からの返答で、ARMYたちの愛がここまで彼のエゴを洗い流させるなら、今見えてる、「半分くらい神性剥き出しになってるジンくん」、これがわたしが窺い知りたいものの答えなんだろう。
半分神性でありながら、半分はいつまでも生身の人間ってところが、地球の学びのエモいところだよなー!どれだけ神性さを極めても、どこまでも半身には生理現象があり、老いがあり、どこまでも五感から離れられない。
だからいつまでも新しい学びがあるのかもしれないが。
こんなにも、愛を取り出して語ることのできる青年男子が、しかもとってもきれいな、地球上におるんやね。素直に感動する。本当に。こんなに自然に。スマートに。簡素に。これまでの人生で見たことないと思う。
それではまた!