j-hopeくんのドキュメンタリー『HOPE ON THE STREET』その3
Ep.5と、最終回Ep.6を視聴。
ところで、このドキュメンタリー『HOPE ON THE STREET』の、ハイライトをダイジェストしたダンス動画が公開されています。
観ていない方のために説明すると、このドキュメンタリーはダンスのレクチャー動画ではない。j-hopeくんが、それぞれのストリートダンスのマスターに会う。マスターは、j-hopeくんが用意した楽曲に合わせた振りを用意して、j-hopeくんにレクチャーする。その結果を、路上で踊って撮影する。そのプロセスを経て、j-hopeくんが感じ取った何かを、画面越しにうっすら推測するのが、このドキュメンタリーの楽しみ方である。
わたしがこのドキュメンタリーを通して感じたことが、公開されたこのダンスハイライトで説明できるような気がするのだが、j-hopeくんのダンスは、ニューヨークに到達すると、明らかにガクンとレベルが変わる。そして、徐々に変化していく過程は、わたしは、「自分が踊っていない時」のj-hopeくんの立ち方に、現れているような気がするんだよね…。
さて。
Ep.5で、j-hopeくんと、このドキュメンタリー全体に同行するハクナム兄さんは、ニューヨークに行く。そこでヒップホップを学ぶのだが、このマスターが、本当に慈愛に溢れたすてきな人…!そんでもって、やはりすごいと思ったんだけど、ニューヨークでのハクナム兄さんの開き具合が、感動する。
開き具合…、自己の開示っぷり…、
ハクナムさん、彼は率先して、j-hopeくんに手本となるべく、余分な自意識を全部破って、個であり、素の部分に、とても精度高くフォーカスし、見せ続けている。ハクナムさん自身が、ニューヨークの旅を120%感受するようなありかたで、ダンスをしている。ハクナムさんがそういう姿勢でいるのは、そばにいるj-hopeくんが自ら素を引き出せるようにするためでもあり、おそらくこのドキュメンタリーに参加することで改めて始めた、ダンスの研究の成果でもあるのだろうが、ハクナムさんの意識のレベルの高さや、覚悟が、彼から色々なものを削ぎ落としているのが、画面越しに良く分かるんである…。
まさに、j-hopeくんがドキュメンタリーで獲得しようとしたもの。
ここでタイアップする楽曲は、【What if…】。わたしはこの曲が大好きで、自分でピアノカバーしたくらいだけど、曲の鬱さに対して、マスターの気質がハッピーなので、もしかしたら合ってなかったかもなあ…!
Ep.6では、j-hopeくんの故郷、光州へ。
光州で、j-hopeくんはかつて彼が在籍したダンスチーム「NEURON」のメンバーと会う。終盤、彼らや、彼らのダンスレッスンを受ける子たちが踊るシーンは、なんだか特別な感動があった。j-hopeくんが群舞に上手に合成されていて、現地で一緒に踊れなかった風であるのが、とても残念…。
j-hopeくんの楽曲【NEURON】を聴いて、一般のファンであるわたしは、単に、脳のニューロンと「New Run」がかけ合わさったメッセージだと受け取った。でも、光州のダンスチームは、「これは俺たちの曲だ」と、一瞬で理解したんだろうな。俺たちに対する個人的なメッセージを、全部受け取ったよ。そういうダンスに見えた。j-hopeくんを直接知らないはずの世代の光州の子たちが、自信に満ちていた。そこがとても良かった。
さて。
ところで。
最近、わたしは仏教に興味を持ち始めている。仏教というか…、ブッダ?ブッダというか…ゴータマ・シッダールタさん?ゴータマさんという個人に興味がある。彼の普通に語ったことばの、真意。彼が結局、どういう風に世界をとらえ、どう理解して、どう説明したか。
ゴータマさんのお話を要約すると、いくつかの四字熟語になるが、その中のひとつに「一切皆苦(一切行苦)」というのがある。なんだかとても苦しそうだ。そんなことを言うゴータマさんは、生きてるだけで辛そうだ。
しかし「苦(パーリ語:ドゥッカ)」は、語源で言うと、車輪の軸が、ちゃんと中央に通っていない様子を表すらしい。乗り心地の悪い様子を指す。
つまり、本来の自分から、ずれて不快な状態。
ダンスとは何か。j-hopeくんにとって、ダンスが何か。
音楽と、自分の身体を使って、自分自身の最も純粋な状態を、自分で体感できることが、ダンスの素晴らしいところだと、観ていてわたしは思った。最も純度の高い自分。誰にも忖度していない自分。そういう自分を、「ちゃんとある、これがその自分だな」と、一瞬の短い間でも、実感することが出来るのが、ダンスの素晴らしいところだ。今のj-hopeくんが、改めてダンスを、そういうものだと定義し直している風に見えて、それこそが彼に必要なことだったんだろう。そのことは今後、必ず必要なのであろう、かつ、それはこれまで難しいことだったのだろう、と思った。
今回彼がそう定義し直せたのは、彼が、どれだけ仕事で「ダンス」にたくさんのフィルターをかけてしまっても、「純粋に楽しい」という気持ちを見失わないくらいに、彼がダンスを好きだったからだ。彼がダンスを楽しいと思う純粋な「好き」は、彼が内側に持っている、彼の純粋な魂と出会うのを、手助けた。「好き」がつなげた。他者からの視点や、自意識や、支配欲や、恐怖や、保身や、仕事や、画の構図や、撮れ高や、そういうものを全部忘れて、なんでもない、何も持たない自分、ただの、最も純粋なエネルギーの塊と、今のj-hopeくんをつなげた。それは、ダンスをしている自分の中に見つけられなかったら、多分、他のいつでも見つけることが出来なかったものなのだ。
それは、つながる回数を増やせば増やすほど、ダンスを踊っていない時のj-hopeくんにも、少しずつ影響を与える。
「肉体」は、さまざまな物的要因が途切れることなく繋がって、今の状態を形作っている。j-hopeくんが、「こうしたい」と意識せずとも望んだ方に体が動く時、それはこれまで彼が作ってきた筋力や、柔軟性や、鍛えられた体幹が支え、これまで教わってきた100万通りの振り付けのエッセンスが、数%ずつミックスされて、体をある方向へ押し出している。「因果」の塊である肉体。朝食べたもの、昨日観た映画、去年言われて傷ついたこと、古くは父親と母親の精子と卵子が受精したこと、つまり「一切行(単独で存在しているものは何もない)」の集積である、「肉体」が持つ来歴の重さが、「ありのままの心」という純粋な高いエネルギーと、一致すること自体が、とっても難しいことなんである。
だけど、それが一致している瞬間だけは、「苦」がない。
車輪の軸が、中心を通っている。
この境地が、ひとによって、演奏することだったり、絵を描くことだったり、刺繍だったり、動物と触れ合うことだったり、料理だったり、掃除だったり、本を読むことだったり、するんだろう。自意識からも、エゴからも、不安からも、心配からも、恐怖からも、過去からも、未来からも自由な状態。
「そういう自分がある」と、自分で自覚されること自体が、それ以外のびみょ〜に本来の自分からずれている、あるいは盛大にずれている「一切皆苦」の「苦」の状態の時に、「自分からずれているなあ…」と感じる時に、正しい選択をする方向へ、自分を後押しするんである。例えば、「音楽も、ダンスも、楽しんでいるふりをしている時がある」のが、「ずれている状態」だと自覚して、その現状を変えるために必要な第一歩を、自分に選択させる。
j-hopeくん、彼が、もし今後ダンスから、いつでも自在に自分の純粋な状態と出会うことが、繰り返し出来るようになったら、もうそれで彼のこれからは大丈夫なのだ。仮に、もしもこの社会からK-POPが消えてしまっても、HYBEがなくなってしまっても、それを拠り所にしないj-hopeくんというものが存在している以上、彼はその純粋な自分を生かす状態を、自分の人生で選択し続けることが出来る。自分に何があれば、どういう状態であれば、自分の火が消えないでいるか、彼自身がはっきりと掴めさえすれば。
今はまだ、10年分の彼の命懸けの一生懸命さが覆っている鎧や、不安に打ち勝つために強張ってしまったセルフイメージが、根底で求めていることと、違うことを「j-hope」にさせる瞬間があるのかもしれない。
でも、その存在を自覚して、それはダンスを通して打破することが出来る、と、彼は分かっている。
ゴータマさんの言うには、「中道」、辛いだけでもだめ、楽なだけでもだめ、j-hopeくんのダンスの追求は、現代でいうところの「中道」そのものなんじゃないかな…。
ということで、今シリーズは終了。2シーズンが予告されてましたが、いつごろなのでしょうか…!この感想シリーズも、とりあえず完結です。まさか仏教が出てくるとは思いませんでしたね!わたしも驚いています。ゴータマ先輩。勉強したくてウズウズしてます。
それでは、また!