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ジンくんの「Abyss」を聴いた、その日1日のこと。

12月4日朝、ジンくんが自分の誕生日を迎えるにあたって書いたブログの日本語訳を読んで、彼の曲を聴いた。歌詞の日本語訳を読んだ。
読んでしまった…。

朝、出かける支度をしながら『Abyss』を何度か聴いて、でも落ち着かない。変な感じ。なんだろう、この感じ。

午前中、仕事をしながら、ずっと頭から離れなくて、ずっと考えてて、いろんな考えや、いろんなシーンが頭を巡って、

今なら分かる。動揺していた。
そして、実はかなりショックだった。

“実は最近、大きくバーンアウト(燃え尽き症候群のような状態)になったのですが、自分のことを深く考えてしまい、そうなったんだと思います。 ビルボードHOT100で1位になって、多くの方々に祝ってもらったのですが、僕がこういうものを貰ってもいいのかな?と…… 正直、僕よりも音楽を愛していて、もっと上手な方も多いのに、僕がこのような喜びや祝福を受けてもいいのだろうか?…… という思いになって、さらに深く考え込むと心がつらくて、全て手放したかったような気がします。”

パクチー、人の親になってしまったので、
一番最初にはっきり出てきた自分の感情は、

「もういいよ、もう十分やったよ。全部辞めて家に帰っておいで」

だった。母親の心境だった。
だけど、ジンくんがそう思って欲しくてあのメッセージと楽曲をシェアしたとは思えない…。なんだろう、このもやもやした気持ち。考えが止まらないんだけど、考えているのも苦しくて、多分ジンくんのせいじゃない、だけどなぜもやもやしているのかも分からない。
でもパクチーの心境は、
「ジンくん、辛い気持ちをシェアしてくれてありがとう」
という感じじゃ全然なく、
「ジンくん、お誕生日おめでとう」
という心境でもなく…。
その日はずっと、随分長いこともやもやしていた。


もやもやしている時には、その先に自分が知るべき重要な何かがある。
パクチーは自分の経験からそのことを分かっていたので、もやもやの先に何があるのかが分かるまで考えようとしていた。何かがある感じはする、きらっと光る何か…。
でもなかなか分からなくて、

ジンくんの本質に通じる何か…、
そこまでアクセス出来そうになった時、
あるインスピレーションが降りてきた。

パクチーが一番、ジンくんに聞きたかったこと。

「どうして、"今"、あの曲をシェアしたの?」
「あのメッセージと曲をシェアすることで、本当は何を伝えたかったの?」

そして、その返答は

「人々は自分自身と出会うことになる。」
「僕がとった行動をシェアしたかった。」

だった。
そう思ったら、初めて動揺とショックが抜けて、
代わりに声を出して泣きそうになった。
なんて役割を、なんてことに自分を、使うのかと思って。

ジンくんが取った行動。ファクトで箇条書きにすると、このようになる。

・カウンセリングを受けた
・信頼できる大人に相談した(パンPD)
・自分の内面で起きていることを作品にした
・専門家(作曲家)の力を借りた
・対等な友人(RM)とビジョンを共有して共同した

彼がわたしたちに共有してくれたのは、

彼のバーンアウトに対して彼が辿ったプロセスと、その経過が生んだ音楽作品

である。


Black Swanの歌詞を思い出す。要約する。

ああ 胸が高鳴らないんだ
音楽を聴いても
気持ちを上げようとしても
時が止まっているみたいだ
これは、僕がいつもずっと恐れていた一番目の死なんだろうか
どんな音も聞こえてこない
もう、耐えられない
藻搔いても周り全てが海
最も深いところで
僕は僕を見た

彼のバーンアウトは、メンバー達みんなが恐れた「一番目の死」だったのだろうか。
ジンくんの言う「バーンアウト」が、どれほど深刻なものだったのか分からない。恐らく、カメラの前に立てなくなる程ではなかったのかもしれない。でも「彼」が辛いと言うなら、それは本当に辛いのだろうと思える。
歌う心境にない時、辛い時、深い悲しみの中にいる時、「歌を歌う」のはとても苦しい。
「声を出すこと」と「精神」はとても連動しているから。
悲しい時に笑顔で、自分の外側まで無理に引き出して声を出して歌うのは、体と心がばらばらに引き千切れているかのように、辛い。

全てを手放したいと思う自分。
卑下。
プレッシャー。
仕事がしづらく感じる
(weavers magazine インタビューより部分抜粋)。


パンPDは「今この感情を歌で書いてみるのはどうか?」と言う。
パンPDが提案したことは、フォーカシングに近い。
フォーカシングとは、身体に現れる小さな違和感から、自分がコントロールしづらい、飲み込まれてしまうような感情まで、安全に向き合うのにとても有効なカウンセリングの手法だ。パクチーにはさまざまなことについて、このフォーカシングの手法が非常に有効だった。

息を止めて 僕の海に入っていく
美しくて悲しんで泣いている僕と向かい合う

あの真っ暗な場所
沈み込みたい 行ってみたい
I'll be there
今日もまた君の周りをうろついているんだ

君の方へ向かうほど息が上がって 君はもっと遠くなっていくようだ
もっと深い海に入っていったんじゃないかな

訪ねて行って 言いたいんだ
今日は君をもっと知りたいと

I'll be there
今日もこうして君のそばへ 目を閉じるんだ

※『Abyss』抜粋 日本語訳 byしおさん


ジンくんは、「全てを手放したい」と言っているのが、彼の中の

「美しくて悲しくて泣いている僕」

と名前をつける。
その「美しくて悲しくて泣いている僕」がいる場所を、

「真っ暗な」「深い」「海」

と名付ける。

そこにいる僕と、対話をして、「僕」が何を言いたいのかただ聞くことがフォーカシングです。ただ自分のペースで、ジャッジしたり、類型に分類したりすることなく。
自分が飲み込まれそうで怖いと思ったら、対話が可能な場所までイメージの中で距離を取ることができます。「声は聞こえるけど姿は見えないくらいに遠く」とか、「川の向こう側に」とか。「壁を挟んでこちら側とあちら側」とか。

「泣いている僕」に、ジンくんは「行ってみたい」「近づくと息が上がる」「遠くなる」「周りをうろつく」と言っている。対話を試みようとしている最中なのかもしれない。

けれど、
「今日は君をもっと知りたい」
「I'll be there」
「今日も君のそばへ」

関心を持ち続けると言っている。


日常生活の中で、同じことが度々繰り返し問題になる時がある。自分が認識している「自分」と、逆の方向から自分を引きずり下げようとする「何者か」が立ち現れる時がある。深淵に潜む何者かは、これまで積み重ねた成果の全部をぶち壊そうとする。台無しにしようとする。これまで通りに生きることを妨げる。全てを投げ出させようとする。

それは、「自分の中に、何かを言いたがっている何者かがいて、聞く必要がある段階に来てるよ」というサインだ。人は、ある一定のところから先に進むためには、深淵(アビス)に潜む何者かと向き合わざるを得ない時が来る。

その存在に向き合わず、要求に耳を傾けず、回避して、逃げて、逃げ回って一生を終えることも出来る。人は望むようにしかできない、そういう人はたくさんいて、それは個々人の選択で、向き合うかどうか、どちらも可能だ。

しかし決して消えて無くなったりしない。
見ないことにしても、生涯その深淵にいる。い続ける。
深淵の子。
一番見たくない自分。
一番認めがたい自分。

ジンくんは、「全てを投げ出そう」と誘う美しい自分が、アビスにいると言う。
彼は「それを認めるわけにはいかない」と考える。
全てを投げ出して、本当に叶えたいことは何?
それが深淵の自分が知っていることである。
自分が自覚していない、根底にある望み。ジンくん自身に気付いてもらうことを望んでいる、もうこれ以上隠れ続けることができない、彼の中の彼。

深淵にいる自分というのは、決してネガティブなものではない。そこにいる自分が言っていることが激しく尖ったものだったとしても、そこにいる存在自体は、いつでもニュートラルなものだ。

自分の中の、一番、柔らかい、一番ナイーブなもの。
これまでの全てを耐え、一番愛から遠く、一番自分が目を背けたい、一生目を背けていたい、しかし、次のシーンに進むために必要な、今一番自分が聞くべき必要のあることを語るものがいる。

これまで深淵で静かにし暮らしてきたその子を、
見つけて、
目を合わせ、
話を聞き、
抱きしめてあげられるのは、この世に自分しかいない。
その子の存在をこれまで知らなかったとしても、その子は自分自身以外の何物でもないのだから。

自分の中にいる深淵の子の存在に気づくその意味は、「あなたの精神的なレベルは、深淵の子との対話を可能にするところまで達したよ」ということとイコールでもある。

恐ろしいかもしれない。準備が足りないと思うかもしれない。でも決してネガティブなものではない。ここから先の人生で大切なことを教えてくれる、あなたが変容するのに力を貸してくれる、大切な友人である。


ジンくんは、そこにいる自分に気づいて、
その空間に名前をつけることができた。
詞を書く為に、そこで起きることを観察した。
そう、このプロセスを進めたのはアート(音楽)の力だった。

一時期、学校教育から美術と音楽の時間の優先順位が落とされた。人生に不可欠なものではないとされたから。
でも今回、わたしは改めて「人」にアートの必要を知った。

アートは深淵と向かい合う人を助ける。
それは音楽かもしれないし、絵かもしれない、詩かもしれない、写真かもしれない、造形かもしれない…、
誰にとっても、アートを表現することが助けになるのは、深淵と向かい合う人に、自分を見失わせないことを助けるからだ。深淵の子と友人になれるかもしれないプロセスを助けるからだ。

アート作品として価値があるか?というのは重要じゃない、というのがパンPDのサジェスチョンだった。
大工さんがあなたの家を建ててくれるように。
縫製家があなたの服を縫ってくれるように。
すぐれた芸術作品にのみアートの価値があるのではなく、誰もこのことを重要だと言ってこなかったけれど、アートの専門家があなたの創作をサポートすることが、その人の魂の為に行われても良かったんだ、とパクチーは思った。


今回、パクチーはたくさんのことを考えた。

1つは、BTSがもう既存のアイドルの枠を超えていること。彼らのように、彼らの一挙手一投足が、世界のグローバル企業に影響を与え、国家間に問題を与え、そんな若者は彼ら以外に存在しない。
彼らはこの先の人生、自分の時間と体を使って、「何をして生きる人になる」のか、自分の中から見つけ出さなくてはならない。この世に彼らのワークモデルがもはや存在しないからだ。それが「アイドル」と呼べる括りに収まるものなのか、違うものなのか、しかし今、その部分に向き合う重要性に気づき始めているのを、先日のWevers Magazineのインタビューで感じだ。

もう1つは、「ジンくん」という良識的な青年がいて、彼は今やこの世の誰もが考える成功、これがあったら幸せだと人が考える全てを持っている人である。「富」「地位」「人気」「健康」「美貌」「名誉」「信頼」「仲間」。全てを十分に持っていて、韓国の人にとって「韓国を広く知らしめてくれてありがとう」と言われるのは最上級の誉れであると思う、
そんな人物が今その立場で何を感じているか、
語ってくれた人がいただろうか?
これまでの人類史上で?
彼が話してくれて、わたし達は初めて、彼のような立場の人が何を感じているか、考えたり、想像したりすることが出来る。
今回の彼のメッセージは、
「全ての人が幸せだと考える条件を全て十分に持っていても、全てを投げ出したいと思う自分と対峙しなくてはならない」
ということでもある。
ジンくんが良識的な人だから、わたし達は自分のことのように理解したいと思うし、自分のことのように悲しんだりする。共感しようとする。
こんなこと、今まで人類史上にあっただろうか?

そして最後は、
彼はこの曲を、楽曲だけをシェアすることも出来たはずだった。
翌年のフェスタで、「半年前、こんなことがあった」と、終わってから語ることも出来たはずだった。メディアにどう扱われるか、リスクもあるのに、あまりにリアリティがあるタイミングで彼の近況を公開したことに、「この時期でなければならなかった」大きな意味が、必ずあるように思う。
その特に重要なポイントは、「バーンアウト」だとパクチーは考える。彼はこれからの世界が多くの人々に「バーンアウト」をもたらす可能性を予測して、彼に有効だったプロセスをシェアしたかったんじゃないか、という気がしている。バーンアウトとは、これまでの自分の仕事を「自分がしてきたのはなんだったのだろうか」と感じて無気力になることも含まれる。

パクチーが、4日の朝からずっと長い時間もやもやしていたのは、

「ジンくんが苦しんでいるのに、わたしは何をしたらいいんだろう」

ということが分からなかったからだった。
今は多分、分かる。
何かして欲しかったんじゃなくて、
彼は自分の体験に含まれている知恵を伝えたかったのだ。
それを受け取ることが出来れば、それで良かったのだ。

アビスにいる美しくて悲しんで泣いているジンくんが望んでいることはなんだろうか。
ジンくんが、通りを歩いて、普通の人のように、彼自身が尊重されるようになる日が来るだろうか。この世の人々が、節度ある態度で彼が普通の人と同じように世界を味わうことを、距離を取って尊重することが出来るくらい、民度が上がる時が来るだろうか。

誕生日の朝、すてきな服に着替えて、街を歩いて、すれ違った近所の知り合いから祝福を受けるような。

願わくば、ジンくんが生きている間に、そういう地球になったらいいな、と思った。

Happy birthday to you.






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