ジミンくんと【VIBE】とBIGBANGをめぐる自主勉
ジミンくん、美眉すぎん…?
(眉毛描くのって難しいよね…?!)
BIGBANGのテヤンさんにジミンくんがフューチャリングした楽曲【VIBE】が公開されました。
わたくしがテヤンさんについて何も存じ上げなかった為、「この方、歌上手い…ダンス上手い…!」と思いながらも、まずはじっくり、ジミンくんを見ることにした。
RMくんがミュージアムにて【Change Pt.2】を歌った空間、あの空間でジミンくんは踊りたくなるんじゃないだろうか、と以前こちらのnoteに書いた。ちょっとそこにある空気感もある。上位な空間が演出されたMVだと思った。
と。こってり見たところで。
「わたしは、テヤンさんについてもうちょっと知るべきでは…」
BIGBANGについてあまりに無知すぎる。
まずはBIGBANGの曲を聴いてみなくてはなるまい。
そして一番最初に聴いたのがこの曲だった。
これが、何も知らないながら、ぐっと胸に、ものすごく迫るものがあった。歌が圧倒的に上手いと思ったが、それとは別の種類の何か。
BTSがその活動の場をソロに移してから、最近になって、いくつもの他のアイドルさんたちがちらちらと目に入るようになった。しかし彼らの作品やダンスを見ていると、実は、パクチーにはこう…何か胸につかえるものがあって…それはあんまり心地の良いものでは無かったのですよ。
そのつかえる感じが、BIGBANGの【Still Life】には無かった。
その理由は、BIGBANGのMVを見ていくうちに分かって来ました。
Wikipediaではありましたが、BIGBANGと各メンバーについてざっとした知識を得て、YouTubeが作ったBIGBANGのプレイリストでMVをいくつか見ました。わたしはK-POPを、アイドルを、BTSだけが好きで、正直、BTS以外のMVはわたしには重くて、あんまり見ていられないのです。そしてやっぱりBIGBANGのMVも重かったのですが、楽曲がめちゃめちゃすごい良い。ぶっ飛んで良い。すごいセンス…天才的…すごい…!
見ているうちに、わたしがBTSを知り始めた頃、彼らのMVを見て「新しい!」と思った要素が、BIGBANGのMVの中でいくつも既出だったことを知った。
こりゃー…どえらく…めちゃめちゃ影響受けてるじゃないの…!
こちらのnoteが、非常に勉強になりました。
BTSの初期のスタイリングやコンセプト、キャンパスラブ的ラブソング。「本家はここにあったのかな」と思わせる色々な類似、共通点、リスペクト。BIGBANGによってK-POP界に圧倒的に、強固に打ち立てられた、完成された世界観を、朧げながら見た。
初期のこの↓アイラインジミンくんが、BIGBANGを(特にテヤンさんを)踏襲している風も感じたし、
もしもこのままジミンくんが筋肉系アイラインのコンセプトを貫徹していたら、
このテヤンさんの方に寄って行く可能性は全然あったと思う。
YouTubeが作ったBIGBANGのプレイリストには、何故かちょいちょいBTSが混ざっていて、そこでほっとしたりしながら見ていた。わたしにはBIGBANGのMVから発せられている負のオーラが重たかった、BIGBANGの音楽の完成度がものすごく高い、だからこそ余計に、耳から聞こえてくるBIGBANGの魅力と、メンバーたちの目が語るもの、映像の負のオーラにギャップがあって、複雑な気持ちだった。
そう。複雑な気持ち。
生まれた赤ちゃんの頭は柔らかいでしょう。頭蓋骨がまだつながってないから。だからみんなそうっと持つでしょう。やさしく手のひらで。
かき混ぜちゃいけないものをかき混ぜているのを、見ているような気になる。それは最近の若いK-POPアイドルたちのMVも同様で。
そんな中、合間に流れるBTSのMVを見て、BTSには「圧倒的に大丈夫」と思わせる一点があって、
それはVくんの目だった。
Vくんの目には、例えMVのテーマが重かろうとも、すごく透明で純度の高いハイバイブレーションの輝きが入っている。いつも。いつでも。「これがBTSのメンバーの精神の象徴なのかな」そうだったのか。皆んなの良心。真心。正気の。純真の。ここに光が灯っている限り、彼らは大丈夫だ。安心だ。健全だ、と、わたしに思えてしまうようなサイン。灯台の光。
そう。BIGBANGの歩みはK-POPの光と影を象徴しているものに感じたし、それをわたしはWikiで軽く触れただけなので、リアルタイムで当時を経験したファンや当事者やその時代の人々にとっては、それがどれほど影響を与えるものだったか、正直想像がつかない。BIGHIT(BTSを作った会社)が、K-POP界の問題を解決するのを目的に、そのモデルタイプとしてBTSを作ったのだとしたら、業界の問題、その全てはまだ解決されていないとしても、BIGHITが問題だと感じて、BTSに回避させたものこそ、わたしが彼らを安心して見ていられる理由そのものなのだと思った。
わたしが若いK-POPアイドルたちを見ていて、得る、複雑な気持ち…。それは一番遠く、しかし最も短い言葉で言おうとすると、多分おそらく「児童労働…」という感じが近い気がする。
わたしは大学在学中、20歳くらいのころから、舞台に興味を持ち始めた。所属していた学部の影響もあって、舞台で音楽と身体を使ったパフォーマンスを作ることにものすごく自分が熱く興奮することを知った。そこから、卒業後にどこかへ就職することを視野から外し、自分が作りたいと考えているジャンルと近いことを実現しているカンパニーを探して、そこへ出演者として、スタッフとして、演出助手として出入りするようになった。その後25歳くらいまで、「舞台でパフォーマンス作品を作る人になる」ということが自分の中の中心の夢としてあり、それに付随する様々な要素や仕事が、自分の関心のある物事だった。
舞台に関わる過程で知り合った同世代の中に、わたしと同じように「自分で舞台作品を作って、やがて成功する」という目標を持ち、目的を持ってステップアップしている女子たちが何人かいた。パフォーマーであり、演出をし、ダンサーでもあり、音楽も作り、歌も歌い、絵も描き、映像も作り、美術も作り。
アイドルになろう、あるいは現在アイドルである女子たちにとって、「美しい」ということが、日常の中では特別であっても、「アイドル」の世界に入ってしまえば皆んなが美しいので、「美しさ」は特に意味を持たない。ただの「入場券」のような機能しかない。同じように、「歌が上手い」「ダンスが上手い」「言われたことがすぐ出来る」というのも、そういう人ばかりが集まっているので、それは特徴にも個性にもならないのである。
そうなると、「自分が押し出せる特色」みたいなものを、どこに置くか、それをどうやって認知させるか。その手法や技術で、先に評価される人とそうでない人の違いがでくる。
評価される人のアピール方法は「正しい」、かもしれない、でも自分はそのやり方を全く良いと思わない。そんな時、自分の中にはさまざまな葛藤が生まれる。そんなことするなんて品がない。とても自分には出来ない。そういうやり方で成功しても自分のことを好きになれない。雑誌に載っている、メディアに取り上げられた、アーティストとコラボした、しかも自分が尊敬している…
その度に、
明らかに効果がある、だからそれは「正しい」方法で、
それが出来ない自分は何なのだろう?
媚が売れることも能力のうちなの?
わたしは自分を何様だと思ってるの?
そして、
「これは出来ない」と感じるこの自意識って何なんだ?
「これをしたら自分じゃなくなる」?
なくなるような自分は、そもそも自分なのか?
大事にすべきものとそうでないもの、
それを見極める基準って何?
「才能」「センス」「努力」「本人の魅力」。それは、自分を磨いて生きようとする人のいる世界の、一歩そちらの方へ踏み出せば、誰しもが持っているもので。
劣等意識。
アイデンティティ。
それをあらゆる方面から、何度も何度も繰り返し味わい、葛藤し、模索し、時には仲間と「これをどう考えるのがいいか」、体験をシェアしながら、アイデアを言い合いながら、付き合い方を覚えていった。劣等意識とアイデンティティ。これが当時一番苦労した感情だった気がする。
成功って何だろう。
メディアに名前が取り上げられること、
金銭、
人脈、
人心、
自己愛は、そのもっとずっと先だった。
「かき混ぜちゃいけないものをかき混ぜているのを見ているような気になる」「その複雑な気持ち」は、それらが自分にとってあまりにしんどかったので、柔らかい心、せめて子供はそこから守られていて欲しいと、思ってしまう自分の体験に由来している。成功=メディア、金銭、人脈、人心…「その人そのもの」が資本主義の価値基準で選別される。値段の付けられないものに値段がつく。それは本来絶対的な評価ではないのに、本人にも、社会的にも強い支配力を持たせてしまう。
それを成長しきっていない心で理解するのは、ますます難しいことだった。
つまり、選別。
存在に対する。
会社が、社会が、ファンが。
アイドルが受ける選別。
成功してもなお受け続ける選別。
自己の存在価値。
BTSの【Jamais Vu】、仮タイトルは「remedy」だったらしい。最初に聴いてわたしが想起したのは、パフォーマンス仲間の葬儀だった。わたしは亡くなった彼が所属していたカンパニーの座長と共に、稽古中だった劇場から葬儀場に向かった。いつも色とりどりの色彩に包まれている舞台仲間たちが全員黒づくめなのは、当時のわたしにはまだ、見たことがない不思議な景色だった。
すらっと背の高い男性ダンサーたちが担ぎ上げたので、棺はものすごく高い位置を移動しているように見えた。
「どうして医療はまだ、鬱を救えないんだ」
棺を見送って、座長は悔しそうに言った。「彼が本当に欲しかったのは、良く効く薬だったろうか?」、とわたしは思った。座長は60代の男性だったが、彼もまた、若い頃に重い鬱を患ってからずっと、その気質と付き合って生きていた。
若い頃の座長、彼は、担当する医師にせまられたりもしたらしい。そしてそういうものと引き換えに、当時まだ日本で認可されていなかった海外の強い薬を取り寄せてもらったりしたらしい。その薬の写真を、彼は自分の舞台作品の中で使ったりもしていた。
亡くなった舞台仲間は、同棲している彼女が浴室で見つけたこと。わたし自身の家族のこと。あるダンサーカップルの、公演期間の最中の躊躇い傷のこと。田舎から出てきた、亡くなった彼の継父の、前歯が一本しかない強烈なビジュアル。
MVの負のイメージは、わたしの知っている世界では演出でもファッションでもなく部分的に現実にあることだったので、
そしてその中で、光を浴びて若い肉体を、才能のままにのびのびと煌めかせているのを見ていたので、
それは今を生きるK-POPの若者たちにとっても、MVで描かれる負の要素がただ「演出」で「ファッション」…ではないかもしれない可能性、無意識にわたしが現実に近い方へリアリティを持ってしまうことに、わたし自身が、疲れるのだと思う。
と、同時に、頭では分かってもいるのだ。若い彼らが「負」を表現することで、現実の社会の中で、負の中に生きる子たちを掬い上げる機能があるだろうことも、頭の中では理解できる。ジャンヌ・ダルクみたいに。社会の中のある地点、そこで、目を合わせて、どこかへ連れていくのだ、共に。大変な役割だ…と思う。ポジティブな場所に。きっと可能に違いない。しかしそれは相当に苦しいことではないだろうか…。
BIGBANGの【Still Life】には、わたしがその他のMVで重く感じる複雑な感情が起きなかった。彼らは対岸に辿り着いてる。捨てたもの、失ったもの、残ったもの、握っているもの。多分、わたしが複雑な思いを持つその全てに、彼らは煩わされていない、その段階から生き延びている。強烈に感じたのは、生き延びた人の、凄みみたいなものだった。
Rolling Stone誌の、テヤンさんのインタビュー。
自動翻訳で読みました。ここに若いダンサーさん、振り付けの、に関して記述があります。振り付けたベイリー・ソックさんのYouTubeチャンネル。見事…。
TikTokのダンスチャレンジ、テヨンさんの自宅?スタジオ?かどこかで踊るジミンくんを見ると、TikTokではジミン節が効いているというか、ジミンくんのセンス、感性を出したまま踊っているのに対して、MVではその要素を抑えていたのが分かる。テヤンさんの質に寄せている。
再びテヤンさんの【VIBE】を見た。
テヤンさんはわたしが見た映像群の中で最もヘルシーに見え、
ジミンくんは彼の最大限、誠実に誠意を持って踊っているように見えた。
ジミンくんの航海はこれからだし、テヤンさんの輝かしいステージもこれからいくつもあるに違いない。
というわけで。
わたしが勝手に老婆心を振りかざして暗い気持ちになるのを、それは杞憂だったら全然いい、杞憂であればいいと思いながら、その出どころを明らかにして、別の方向からパンチを打ってヒビを入れてくれた、【VIBE】、およびBIGBANGの足跡、そしてジミンくん。
と、こうなるとEP.3のSUGAくんのテヤンさんを招く「シュチタ」が楽しみで…!このSUGAくんの番組、2023年、最も話題性の高いバラエティになるのでは…?!
わたしがBTSに絶大な安心を感じるのは、RMくんを始めメンバーそれぞれが、他者が与え他者が奪いもする「評価」をアイデンティティにしないで、「地に足がつくように」、グラウディング、他者によって奪いようのない感覚、その体感を獲得することを渾身で座標にしていることを、いくつもの方法で伝えてくれるからだ。
彼らの言葉、経ている過程は、アイデンティティを見出すことに苦労した、お金と成功の定義に苦労した20歳から25歳の自分に言って教えてあげたいようなことでもあるし、今聞くことで当時の自分が癒されているような感じもある。そのことで今の自分が安心もしている。今の自分を成長もさせている。
だからBTSが大好きで、
ヒョンラインのように言葉で語ることの多くなかったジミンくんが、これから身体で語るものも、わたしはすごく楽しみだ。
安心して楽しみにしている。
それでは、また!