ワルシャワでの生活とロマンス その2
アナスタシアと出会ったのは、ワルシャワに引っ越して一週間ほど経った八月八日の夜であった。ランゲージ・エクスチェンジのイベントに行って、バーの外で同じ年頃のポーランド人男性と話していると、すっきりと長い髪の、雪のような腕を軽やかにワンピースから伸ばした女性が、バーの入り口をくぐって中へ入っていくのが見えた。こころ惹かれるものがあって、後ろ姿しか見えなかったその人を追いかけたかったが、私は目の前のポーランド人男性の退屈な話を打ち切ることができないで、ぐずぐずとうわの空で相槌を打ったりしていた。
五分ほどして女性二人の姿が入り口に見えた。一人はさっきの長い髪の女性、もう一人はこのバーについた時に、店の中で二言三言言葉を交わした髪の短い女性であった。二人は私の近くの椅子へと腰を下ろしたので、それをいいことに私はポーランド人男性との話を打ち切って女性たちに話しかけた。髪の短い女性の方はベラルーシ出身だとすでに聞いていたが、髪の長い彼女もベラルーシ人だという。
私が持ち出した話のつかみは、東京の中心に「ミンスク」という名のレストランがあることだった。私は行ったことはなかったが、その存在だけは知っていて、なぜ六本木にこんな名前のレストランがあるのかと不思議に思っていたのである。日本人の大半は、「ミンスク」がベラルーシという国の首都の名であることは知らずに、レストランの前を通り過ぎているであろう。つかみはうまくいって、そこから話は四方八方に展開していった。アナスタシアと名乗った彼女は、ワルシャワ大学の修士課程で生物学を学ぶ二五歳の大学院生で、ポーランドには一年半ほど住んでいるという。もう一人のベラルーシ女性は、他の人に話しかけられて、随分前にどこかに行ってしまっていた。
二時間ほどして、私はもう切り上げる時だと感じていたので、連絡先を聞いてバーを離れることにした。
「名前は『Anastasia』だよね?」と彼女の名前を入力しながら聞くと、「そう。ナスチャって呼んで」と明るい響きが返ってきた。顔を上げると、彼女の長い髪が夜風にゆっくり吹かれているのが見えた。
バーを去って、近くの信号を渡った角に建つビルの前を通り過ぎる時、ガラス越しに見慣れた青のロゴが見えて、そこにはNECが入居しているのが知れた。
美しい人と時間を共有することには、人生の他の場面では得られない特別な恍惚がある。それは美味しい食事の後の満足感や、待ちわびた吉報が届いた時の高揚感とも違う、もっと生々しく熱っぽい感覚である。そして、佳人と時を過ごして別れた後、独りで歩いている時の、胸の充ちた感覚はなんともいえない。いま終わったばかりの楽しい時間を、あめ玉をしゃぶるように何度も回想したり、彼女の言葉やふるまいから、自分への好意の徴候を見つけ出そうとしたり、家についたらどんなメッセージを送ろうかと考えたり、そしてさらには、それらがすべて一人よがりの誤解なのではと不安に駆られたりする、なんとも落ち着かない、一等盛り上がっている時。それが特に夏の晩だと、希望でぼうっと熱した身体から伸びるむき出しの素肌に、夜の風が心地よい涼を運んでくる。
家に着いた後も、冷めやらぬ余韻のなかに色々な考が頭に湧いてきて、部屋の明かりを落としてもなかなか寝付くことはできなかった。
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