【MLB】マービン・ミラーとストライキ史【FA制度】
2022年におけるMLB選手の平均年俸をご存知でしょうか。なんと441万4184ドルという途方もない金額です。おそらく95%以上の一般人の生涯収入を悠に超えるのではないでしょうか。
では今から約60年前の1960年の平均年俸はいくらであったでしょうか。実はたったの1万7934ドルという額に留まっており,現代のMLB平均年俸に割り当てればと僅か0.4%というもの。(もちろん米国のとてつもないインフレもあるので純粋な価値を表すものではありません。)
1960年頃のMLBにはHank AaronやWillie Mays,Brooks RobinsonにMickey Mantleといった名だたるスーパースターがいたものの,彼らでさえ10万ドル前後の給与に留まっていました。
1950年代を振り返ってみても,最後の4割打者Ted Williamsさえも9万ドルが最高年俸,56試合連続安打のJoe DiMaggioも10万ドルを手にしたのみ。これで分かるように『どんなスターであっても最高年俸は10万ドル』といった暗黙の了解が存在したと言われています。
戦後成長を遂げ続けるアメリカ社会において,この不文律だけが残り続けた結果,AaronやMaysらも選手としての価値に相応しい報酬を得ることができない状況でありました。
加えて,球団経営者は20世紀前後から「君たちは好きな野球をしながらお金を貰える幸せ者である」と頻りに喧伝。これにオーナー親派のメディアも呼応し,野球選手がお金を求めて行動するのは恥ずべき行為との世論を形成。賃上げ交渉すら難しい状況が何十年にも渡って続くこととなります。
私腹を肥やし,更なる財を築こうとやりたい放題状態の経営者たちを横目に,老後どころか妻子を養うにも不安を抱える選手たち。そんなアメリカの国民的スポーツを取り巻く悪天候を一変させた人物がいました。
男の名は”Marvin Miller(マービン・ミラー)”。MLBに留まらず,スポーツ史に燦然と輝く偉大なる活動家です。
今回のnoteでは,Millerの残した功績,そして選手と経営者側の戦いを綴っていきます。作成にあたっては「MLBPA年表」及び「FAへの死闘―大リーガーたちの権利獲得闘争記(Miller著)」を大いに参考文献としている関係上,どうしても選手会寄りの記載になることに留意してください。
第1章 MLB選手会 初代委員長
Major League Baseball Players Association【通称MLBPA】が結成されたのは1953年でありましたが,それ以前にも野球界には労働組合(Union)は存在しました。1885年,当時ナショナル・リーグのエグゼクティブであったAlbert Spalding主導で選手年俸の上限を定める動きが高まります。それに対し殿堂入り野手John Wardら9選手が選手組合を結成し,対抗する構えを見せました。そこから1900年の選手保護協会,1912年の全米プロ野球選手友愛会といった新たな選手組合が生まれていきます。(MLBPAは数えること5番目の選手組合ということになります)
一方で,こういった旧来の選手組合では経営者側が痛みを負うような爪痕を残すことはできず,恐れるに足らないUnionであったことは事実。1965年には後の殿堂入り投手のRobin Roberts&Jim Bunning,通算2000安打のHarvey Kuennといった名手らがMLBPAに改革をもたらそうと動き出しますが,経営者側にとっては全く脅威ではありませんでした。(もちろん,1946年のアメリカン・ベースボール・ギルドのように,最低年俸5,000ドルや年金制度を引き出した歴史も無視してはなりません。)
話は変わって1959年,全米鉄鋼労働組合(USWA)は賃上げを主な理由として116日間のストライキを敢行。この間,アメリカの鉄鋼産業は完全に機能を停止し,最終的に組合の意向を汲んだ賃上げを勝ち取ることとなります。
このストライキにおいて最大の功労者を挙げるならば,組合理事長であったDavid J. McDonald,法務顧問のArthur Goldberg,そして経済顧問のMarvin Millerの3人でしょうか。特にMillerはEisenhower大統領(当時)との交渉で最前線に立ち,国の強行手段にも頑として食い下がりました。いわば労使交渉のプロフェッショナル,それもアメリカ史に残るストライキを経験したエコノミストであったのです。
1965年,MillerはUSWAから身を引くタイミングで,先のRobertsやBunningらに「2年後に選手年金計画の交渉が控えており,MLBPA常勤の委員長として就任してほしい」との打診を受けることとなります。当時,Millerはハーバード大学とカーネギー国際平和財団といった輝かしい組織からの勧誘も受けており,”弱小”で”貧相”なMLBPAの委員長の座を受ける必要性はどこにもありませんでした。
しかしMillerはハーバード大学やカーネギーの財団を蹴り,Robertsらの要請を受託。理由は極めて単純で,Millerの生まれはニューヨークはブルックリン。幼少期に彼の地へフランチャイズを置いていたドジャースの熱狂的なファンでありました。どれほど熱狂的であったかというと,ある記者に年号を聞かれただけで,当時のスタメンや選手成績を暗唱できたほど。
かつて羨望の眼差しを向けていた野球選手達の窮地を案じ,自分ならなんとかできるのではと名乗りを挙げたのでした。当時MLBPAにあったのは僅か5,700ドルの現金と古びたキャビネットが1つ。ここからMillerの長くも険しい戦いが始まったのです。
第2章 最初の戦い
MillerがMLBPAのオファーを受けてから,最初に奔走したことは制度改正ではありません。委員長就任について,選手たちからの信任を得ることでした。
実は1965年,RobertsやBunningらの推薦に反して,ナショナル・リーグの選手代表であったBob Friendらは裁判官の経歴を持つRobert Cannon(ロバート・キャノン)を推薦しており,1966年1月にはMillerではなく彼を委員長とすることで見解は一致していたのです。
このCannonという男は,1959年にMLBPAの法務顧問(非常勤)に就任していた人物であり,選手会から一定の支持を受けていたのも事実。(特にFriendとは旧知の仲。)しかし決して選手の利益を考えていた男ではなく,コミッショナー職を狙う為の腰掛け程度にしか捉えていませんでした。実際に1965年にはFord Frickが退任する際にもコミッショナーとして立候補,その際は軍人経験のあるWilliam Eckertに敗北しました。
もちろん落選後もコミッショナー職を虎視眈々と狙っていたため,MLBPAの法務顧問に就任後には「オーナー達にはいかなる要求も,声明も出さない」「今の年金制度は優れているため,次に何をオーナー達に頼めばいいのかわからない」といったあり得ない発言を連発していました。
このように,オーナー陣へ胡麻擂りをすることでコミッショナー職を拝命するという目論見が丸見えにもかかわらず,Friendら選手会は楽観的に構え,彼を常勤の委員長へ推薦をしてしまったというのが大まかな流れです。
この無礼な出来事にはMillerも一度は委員長職を固辞。オーナー寄りのCannonが委員長となるのは時間の問題でした。しかしCannonは,裁判官を辞めて常勤のMLBPA委員長に就任することで司法年金が減額となることに焦り,大幅な給与アップを打診。これに不信感を抱いた選手会が推薦を白紙に。急転直下,Robertsらの三顧の礼でMillerの立候補を取付けることとなったのです。もちろん,USWAでのストライキ実績を持つMillerの委員長への推薦は,それまで選手を支配してきたオーナー陣に不穏な空気を産み出したことは言うまでもありません。
1966年,4月11日に行われる選手からの信任投票で当選するためMillerは春季キャンプ巡礼を実施します。ここでは未だ法務顧問であったCannonやオーナー陣によるマスコミへの印象操作が加速。「Millerはストライキを陽動し,君らの仕事や給与を無くそうとしている」といった与太話を選手へ吹き込みます。実際この偏向報道によって,アリゾナでキャンプを行っていたジャイアンツやカブスの選手たちはMillerを歓迎しませんでした。(特にジャイアンツは満場一致でMillerを不信任しました。)
しかし東海岸フロリダのキャンプ地においては印象操作の手が届かず,Millerの積極的対話が実ります。手を焼くオーナー陣は選手へMillerを雇わないように警告を出しますが,「オーナー達が警告を出す人物は,対抗勢力であるMLBPAの委員長に適任なのでは?」として選手間の支持が拡大。
最終投票においては賛成票489,反対票136で見事MillerのMLBPA委員長就任が決定したのです。
ただ,ここでもCannonが最後の抵抗を見せます。法務顧問の立場を利用し,Cannon直々にMillerの雇用草案を作成。この草案における委員長任期が「1967年1月1日からの2年間」となっていたのです。
これにはMillerが異を唱えます。それもそのはずで,Robertsら選手代表が常勤の委員長を欲した理由が”1967年3月末をもって現行の選手年金ルールが失効するため”でした。Millerの任期が1967年1月からでは,この選手年金の交渉にほとんど携わることができないのは明白でした。これには選手からも不満が噴出し,最終的には1966年7月1日から2年6ヶ月の任期で合意に至ります。
ここでオーナー陣も更なる切り札を出します。実はMLBPAの組合費は選手が年会費として納めていた50ドル/1人に加えて,オーナー達から年間15万ドルもの資金提供を受けていました。見てわかるように,オーナー側の支え無くしてMLBPAの資金は成り立っていなかったのですが,よりにもよって「Miller就任の折には15万ドルの提供を行わない」と通告したのです。
その卑怯な行為に反して,Millerは歓迎の意を表明。これには理由があって,そもそも雇用者側が被雇用者の組合費を負担するのはタフト=ハートリー法という連邦法に違反していたのです。これにすぐさま気づいたMillerにとって,提供打ち切りはそもそも当たり前のこと。(とはいえ,オーナー側も打ち切りの理由として本法に違反することを第一に挙げていた。ただ,予定調和でCannonが委員長に就任していれば,それまでどおり法を無視していたということは想像に難くありません。)
もちろん選手会は資金難に見舞われる訳ですが,Millerはすぐさまコカ・コーラ社と交渉を行い,ビンの蓋裏に選手の写真を貼るためのライセンス料(6万6,000ドル)で当面の費用を賄うことに成功。ここでもオーナー側はチームのロゴ使用を認めないことで計画を頓挫させようと考えますが,コカ・コーラがロゴ部分だけ削った写真を使用したことで窮地を脱しました。(同時期,カード大手Toppsとのライセンス争いがありましたがいずれまとめます)
第3章 年金制度の抜本改革
繰り返しになりますが,そもそもRobertsらがMillerに委員長就任を依頼したのは喫緊の課題である”1967年3月年金制度失効”の解決を期待したからでしたよね。
Millerもまずは年金契約に関する交渉を進めようと,1966年6月に行われる予定のオーナーと選手会による会議出席を試みます。しかしオーナー側は「Millerの契約は7月1日から発動するのだから,部外者である6月時点では会議へ参加することができない」といった趣旨で抵抗を行います。
ここで”Miller外し”が上手くいかないと悟ったオーナー側は選手会との話合いを待たずして勝手に年金計画を作成。当時のEckertコミッショナーに記者会見を強行するように迫りました。ただEckertはMillerに「団体交渉を経ないで年金計画を発表しようとする一連の流れは連邦法違反になる」との説得を受けて会見を中止。後年にMillerはEckertコミッショナーを”人畜無害だが何も知らない男”と評しましたが,まさにそのとおり。
結局,7月11日に交渉再開へ漕ぎ着けます。
選手たちは,②における分配率を維持してもらうことが第一条件でありましたが,テレビ放映権の価値上昇にともなって富を専有したいオーナー側がこれを拒否。交渉が難航します。
ここでMillerは選手会に「①選手が1日2ドル(年間344ドル)を拠出」という条項の撤廃を提案。浮いた年間344ドルを組合費に充て,それまで選手が納めていた年50ドルの組合費を選手に返すといったもの。選手からすれば,年50ドルの収入増に繋がるものでした。(現在でいえば430ドル程度の紙幣価値)
また,オーナー側が40%の割合キープを断固拒否していたため1967-1968年までを効力として「②AS収益・WS放映料から拠出」という条項を撤廃し,オーナー陣に年間410万ドルを拠出してもらうことで妥結。(それまでの分配率基準だと年間260万ドル程度であったことに鑑みると拠出額自体は純増。ただし,放映料がインフレしていく中での固定金額の拠出は選手会にとってのベストな条件ではなく,今後もこの額のままだといずれ選手会が損をすることは目に見えていた。)
こうして1966年12月1日,選手会とオーナー側によって新たな年金契約が結ばれました。
この年金制度によって,引退選手の年金給付額はおおよそ2倍に。また,年金交渉に絡めて組合費のチェックオフも成立させたMillerの手腕は見事なもので,コカ・コーラ社とのライセンス料と合わせて年15万ドルの組合費を確保することに成功しました。
またMillerはこのタイミングで,長きに渡って相棒となるDick Moss(ディック・モス)を法務顧問に就任させています。
第4章 プロスポーツ史上初「CBA」締結
2023年度におけるMLBの最低年俸は72万ドルとされていますが,Millerが委員長となった1966年当時の最低年俸は6000ドルというもの。現在の紙幣価値に換算しても5万ドル半ば程度といったところ。アメリカン・ベースボール・ギルドによって5000ドルの最低年俸が1947年にもたらされたものの,そこから20年で得られた上昇額は僅か1000ドル。戦後成長とインフレ真っ只中のアメリカ経済に鑑みれば,あまりにもひどい状況でした。
そこでMillerは,1969年3月に失効する年金計画の年金拠出額の増額とともに,”最低年俸の増額要求”を含めた労使協定の策定を掲げます。1966年12月に結んだ年金計画が前哨戦だとすれば,ここからが本当の戦いであったといえるでしょう。
選手会は早速1967年1月に労使協定の交渉を開始し,「最低年俸1万2000ドルへの引き上げ」を打ち出します。(当時全選手のうち40%の年俸が1万2000ドルを下回っていたため,このラインを設定した)
この時点で年金計画失効まで2年の猶予がありましたが,ナショナル・リーグの役員であったBowie Kuhn(ボウイ・キューン)を筆頭に,オーナー側の時間稼ぎが露骨に行われます。理由は単純で,1969年1月まで待てば憎きMillerの任期が終わるからというもの。
その後,何度も話合いの場が持たれますが,Kuhnらは「今回はあなたたちの要望を聞くだけで討議の予定はない」として選手会を挑発。オーナー達も約束を反故にして協議への参加を拒み続け,1967年11月の段階で全く何も決まっていないという事態に。(※基本的にオーナー側は毎回幼稚な遅延戦略を打っています。)
しかし,こういったオーナー側の遅延戦略に怒りを覚えた選手委員たちはメキシコシティで行われた組合総会に集結。委員長任期終了を待たずして,Millerの任期を1970年まで3年延長すると発表したのです。この動きを強く後押ししていた選手委員1人であるフィリーズのJim Bunningは会見で「我々のリーダーは当分いなくならない」とオーナー側への対抗姿勢を見せました。そのBunning本人は,1967年に302.1回を投げて防御率2.29を挙げるキャリアイヤーを過ごしていましたが,この発表直後に見せしめとしてパイレーツにトレードされています。
ただ,「Millerの契約延長」は少なからずオーナー側にダメージを与えることに成功し,1968年2月にプロスポーツ史上初となる労使協定(CBA)が締結されることとなりました。
これによって長らく続いた最低年俸6000ドルの時代は終わりを迎え,その後数十年間に渡って選手の待遇が激変することになります。
しかし,1969年3月に失効を迎える年金計画の交渉については膠着が続いており,依然として労使双方の緊張状態が解かれることはありませんでした。
翌1969年に4チームのエクスパンション(球団拡張)控えており,オーナー1人あたりの年金拠出額負担が減ることは誰の目にも明らかであったにも関わらず,1966年に定めた年410万ドルという拠出金増額の姿勢すら見せず。更にはタイムリミットが迫る1968年夏にオーナー側が以下のような年金計画素案を打ち出したのです。
それは,まるで1966年以前に回帰するような年金計画であったために選手会は断固拒否。Millerは選手らに「対抗措置として今オフに年金計画が締結されるまで,選手は契約更新を行わない」という戦法を打ち出します。
それであってもサンフランシスコで開催されたウィンターミーティングでオーナー側は「忙しい」として対話を頑なに拒否。Millerらの対抗措置も大ごとには捉えていませんでした。これが再び選手会の心に火を灯すこととなったのです。
1968年12月。Millerたち選手会は,一向に進まない話合いに対抗すべく,記者会見を開き,契約保留に同意した選手450名全員のリストをマスコミの前で読み上げます。
「Willie Mays,Carl Yastrzemski,Brooks Robinson,Roger Maris,Philip Niekro,Jim Palmer,Mickey Mantle…。」
ここでは挙げきれない多くの名選手が立ち並びます。特にNYYのレジェンドであるMantleの名前が公表されるに至ったいきさつについては胸が熱くなります。
こういった試みは,それまでオーナー側に有利な偏向報道を繰り返すメディアにも突き刺さり,多くの反響を呼ぶことになります。
ようやく焦りだしたオーナー陣営は,直後に「年間拠出額510万ドル」を打ち出しますが,それまでの<410万ドル/20球団>が<510万ドル/24球団>になるだけでオーナー1人あたりの負担は僅か7500ドル増にしかならず。4つの新規球団選手が増えることで年金受益者が増えることも考慮すれば全く以て不相応であったといえます。
年金計画失効が近づく1969年2月には一向にキャンプインされない無人の球場が各地で報道されるようになり,ようやく交渉妥結。オーナー1人あたりの拠出額を2万ドル以上も引き上げる計545万ドルの拠出に漕ぎ着けました。
かくして1960年代後半のCBA-1・年金計画交渉は終わりを迎えました。しかし1970年代に巻き起こる労使双方の”戦争”に比べるならば些細な出来事であったのかもしれません。
19世紀後半から球界に残り続けていた”保留条項”に風穴を開けることになるのです。
第5章 フラッド対キューン裁判
ゴールドグラブ賞を7回受賞し,打率3割を6度も記録したCurt Flood(カート・フラッド)は,紛れもなく1960年代最高峰のセンターであったといえます。セントルイス・カージナルスにて2度の優勝にも貢献した偉大な選手です。
しかし彼の名は現代において別の意味を持ちます。”悪しき保留条項に立ち向かった男”とでも言うべき存在であり,彼の勇気なくしてフリーエージェント権や年俸調停制度の導入は為し得なかったでしょう。
話は少し遡って1968年,この年のワールドシリーズはセントルイス・カージナルスとデトロイト・タイガースによって繰り広げられ,熾烈な争いは最終第7戦までもつれることとなります。STL先発のBob GibsonとDET先発のMickey Lolichの投げ合いは一歩も譲らず,6回まで0-0のスコアレスで進みます。
7回表2死から連打を浴びたGibsonは,1・2塁のピンチで6番打者のJim Northrupを迎えます。
NorthrupはGibsonを捉えると打球はセンター後方,名手Floodの元に飛んでいきます。普段であれば追いつけていたセンターライナーでありましたが,Floodが目測を誤った為に頭を越えて三塁打に。痛恨の失点を喫したSTLは4-1で敗れ,60年代で3度目となる優勝をあと一歩で逃すこととなりました。(GibsonはFloodの謝罪に対し”誰のせいでもない”と返しました。彼の第1戦目での17奪三振は今なお伝説ですよね。)
このWS優勝を左右したワンプレーによってFloodと球団の間に綻びができつつありましたが,1969年2月の年金計画締結後に,例に漏れず保留としていた契約がすぐにまとまらなかった事で,本格的にGussie Buschオーナーら経営陣の怒りを買うことになります。(特にBuschとFloodの関係はそれまで良好であったとされています。結局,当時としては高年俸である9万ドルで合意。)
これが火種となったのか,1969年10月7日にカージナルスはFloodを含む4選手をフィラデルフィア・フィリーズに送るトレードに合意。海外休暇を過ごす準備をしていたFloodは,このトレードを新聞記者から知らされることとなります。
後にFlood自身が“northernmost Southern city(最北端の南部都市)”と形容したように,フィラデルフィアには他都市に比べて黒人差別が根強く残っていたこともあり,難色を示します。また,同じトレードパッケージに含まれていたRichard Allenが,”かつてフィリーズ在籍時にはファンやマスコミから人種差別を受けていた”とFloodに打ち明けていたことは無関係ではないでしょう。
フィリーズも移籍後の年俸を1万ドルアップすることを打診しますがFloodはこれを拒否。そして遂には前代未聞の「トレード拒否」に打って出るのです。
ここでキーワードとなるのは”reserve clause”という文言。日本語では”リザーブ条項”や”保留条項”と呼ばれる制度です。
Floodはこの保留条項に目を付け,反トラスト法(独占禁止法)に違反していると主張。トレードに対して拒否権が行使できないことは「奴隷制のようだ」と強く非難しました。
そして11月には選手会委員長であったMillerとFloodがミーティングを行います。ここでMillerは保留条項が撤廃されてこなかった歴史(★),勝訴する可能性の低さ,訴訟には費用と時間がかかること,勝訴した場合も恐らくオーナー達から締め出されることなどを伝えます。それでもFloodの意志は固く,MLBを相手に取り訴訟を起こすことを決意します。
選手会も1969年12月13日にプエルトリコで執行委員会を開催し,Floodの意向を確認。「黒人差別」や「給与アップ」が争点でなく,Floodにとっては「保留条項の撤廃」のみが争点であることが伝わったため,25人の選手委員全員が選手会で訴訟費用を捻出することを可決。こうして,「オーナーvs.選手会」の構図をはらんだ裁判が巻き起こることとなります。
また,「オーナー陣vs.選手会」という構図はかなり楽観視した見方であり,莫大な富を持つMLBオーナー陣によって活動資金の援助を受けていた政界の大部分も敵に回っていたことは言うまでもありません。
そんな四面楚歌においては,Floodの雇ったAllan H. Zerman弁護士だけでは実力不足であり,Millerはある弁護士に声をかけます。その男とは,Millerが全米鉄鋼労働組合(USWA)時代に共闘した敏腕Arthur Goldberg(アーサー・ゴールドバーグ)です。GoldbergはUSWAで法務顧問を勤め上げたのち,1961年にはJohn F. Kennedy大統領から労働長官,翌62年には最高裁判長に任命されたほどの大物。更に反トラスト法の裁判に多く携わってきた経歴も魅力であったことでしょう。
もちろん,これほどのビッグネームを雇うには法外な顧問料を支払う必要がありましたが,「もともと野球界の保留条項には怒りを覚えており,興味があった」とGoldberg自ら報酬を引き下げて参戦。これにはMillerも『Sandy Koufaxを二束三文で雇ったようなもの』と回顧しています。
1969年12月24日,強力なバックアップを得たFlood陣営は,裁判に先立ち当時のコミッショナーであったBowie Kuhnに手紙を宛てます。内容は保留条項の矛盾点と,トレード拒否をオーナー側に通達してほしいというものでありました。
これに対し,Kuhnは「あなたの所有権はフィリーズにある。保留条項のどこに矛盾点があるのかを教えて欲しい」と応酬。
かくしてFloodは1970年1月にコミッショナーBowie Kuhn,ア・リーグ会長Joe Cronin及びナ・リーグ会長Chub Feeney,並びに24球団のオーナー全員を相手取った訴状を提出しました。
これが俗に言う「Flood v. Kuhn(フラッド対キューン裁判,カート・フラッド事件)」であります。
5月に行われた地方裁判ではFloodが証言台に立った他,証人としてJackie RobinsonやHank Greenbergといった往年のレジェンドも登壇。Robinsonは「保留条項が変更されなければストライキで対抗せざるを得ない」と述べ,Greenbergは「保留条項を撤廃できれば野球のイメージを刷新できるはずだ」と証言しました。
対してコミッショナー&オーナー側は「保留条項によって今まで戦力均衡が保たれていた」「条項が無くなればスモールマーケットチームは締め出される」といった理論を展開。ホワイトソックスのオーナーであったBill Veeckのみが「キャリアを永久に拘束すべきでない」と異を唱えていたものの,一貫して保留条項の意義を唱えました。
結果,Irving Cooper判事は1970年8月に「かつてのトゥールソン事件判例を支持する」として保留条項を支持。コミッショナー&オーナー側の主張を認める判決となりました。
1971年4月には控訴審が行われますが,Sterry R. Waterman判事によって「野球のみを反トラスト法から免除することは非論理的。一方でトゥールソン判例を覆すのは最高裁判所の役割である」として棚上げされる結果に。予想どおり,舞台は最高裁までもつれることとなります。
口頭弁論ののち,9人の判事によって「トゥールソン事件判例に基づいた地方裁判所の決定を覆すべきか」といった投票が行われます。
特に保留条項を支持していたBlackmun判事は計20ページ・5セクションの意見書を作成。(全文)
”The Game”と題したセクションⅠにおいてはMLB黎明期・成り立ちに加え,判事自身が偉大と考える88人の選手名簿が書き記されていました。セクションⅡ・ⅢではFloodの現状と訴訟の状況について,そしてセクションⅣではフェデラルリーグ事件の控訴審・トゥールソン事件判例を支持する理由を複数述べており,この意見書に判事主席であったWarren Burgerら4名が賛同した形となりました。
対してMarshall判事は「反トラスト法の重要性を軽視することはできない。野球選手にとってもその他の労働者にとっても重要である。」として反論を行っています。
結果,5対3で「地方裁判所の決定を支持する」ことが賛成多数となり,最高裁判所はFloodの訴えを退け,コミッショナー&オーナー側の勝訴を言い渡すこととなりました。
この裁判によってFloodはフィリーズでのプレーは免れたものの,1970年11月にはワシントン・セネターズへトレード。1971年シーズンに13試合で7安打に終わると解雇を受け,現役引退となっています。裁判中は手紙などによる多数の誹謗中傷・脅迫にも苦しみました。1997年1月には肺炎を患い,この世を去っています。
ではFloodの起こした行動は無意味であったのでしょうか。いいえ,そうではありません。この一件に起因して,MLB選手の権利は加速度的に広がっていくこととなったのです。
第6章 1972年,ストライキ決行
2年前に締結した”CBA-1”の期限は1970年4月5日まででありましたが,最低年俸の引き上げなどを望む選手会側と,賃上げに難色を示すオーナー側で議論がまとまらないまま1970年シーズンに突入。
結果として6月8日に最大3500ドルの賃上げを含む”CBA-2”に合意を果たしました。
Millerが参画した1966年以降,着実に力を付けてきた選手会は僅か5年足らずで最低年俸を倍増させることに成功。Floodが敗れた保留条項打破にも拍車が掛かる状況でありました。
しかし1972年に事件は起こります。
”CBA-2”の失効期限は1972年12月末となっていましたが,1969年4月から適用されていた年金計画は1972年3月末と,やや早めとなっていました。
もちろん労使双方は早い段階より交渉を進めていましたが議論は例に漏れず1971年中にも妥結せず。
①当時,NBC放送局とMLBコミッショナー事務所との間で年7,200 万ドルの放映契約が成立していたこと
②年金基金によって年90万ドルの運用益(オーナー側の利益)が生じていたこと
③MLBの年金・福利厚生制度を引き受けていたEquitable社から「保険料の値上げなどによって年37万2000ドルの追加手数料が発生する」との通知が成されていたこと(1972年1月12日付け)
などを踏まえ,選手会は現在の拠出金545万ドルに120万ドルを加えた665万ドルの拠出を要求することとなります。
これに対し,3月8日にはオーナー側が現状維持どころか拠出額の減額を示唆。全面戦争の様相を漂わせます。
当時春季キャンプ地を巡業していたMillerは,オーナー側の要求を確認したのち,急遽予定を変更。24球団すべての選手に現状を説明し,最悪の事態に備えてストライキの決議投票を行うように指示。これにはMillerが選手会へ福利厚生制度の重要さや,放映権料の増大,米国内のインフレを何度も説いていたこともあり,多くの選手がスト決行を批准する動きを見せます。
そんな状況を耳にしてもオーナー側は焦るどことか,「ストライキを打つ力はない」と依然として選手会の結束力を軽視。実際,アメリカのスポーツ史において選手会がストライキで成功といえる成果を収めた例は一度もありませんでした。
全球団の投票結果が3月30日に出揃うと,675票中:賛成663-反対10-棄権2の賛成多数でストライキが批准されることとなりました。
しかし当時を振り返ってMillerは「ストを打つには選手会が若く,CBA-2が失効する1972年12月末まで年金計画の協議を続けるべきでは」との不安を抱えていました。ここにきてストライキが失敗すれば着実に成長を続けてきた選手会には大打撃となることは想像に難くありませんでした。
Millerは法務顧問のDick Mossと共にストライキ延期を軸とした新たな計画を3月31日の選手総会で提示します。
しかし選手会の覚悟は相当なものでした。Millerが打ち出した延期案に選手らは反対し,スト決行を押し通す意見が大半をしめたのです。
この団結した様子を見たMillerはストライキ決行を決意。かくして1972年4月1日からMLB史上初のストライキに突入することとなったのです。
このままだと4月5日に迎える開幕戦が実施されない危機にありましたが,4月4日に行われたオーナー会議では「運用益(余剰金)の一部を拠出金に再分配する」というMillerの案を却下。これにより全ての試合がキャンセルされる事態に。
ブレーブスのエグゼクティブは「東條英機にも負けなかった野球がMarvin Millerに敗れた」と語るなど,あくまで責任は選手会にあるとの姿勢を崩しませんでした。
マスコミも選手会を痛烈に非難する記事を発信し,ファンには「すでにアメリカで一番優れた年金制度を享受しているのにも関わらず,ストライキを決行した」との印象を植え付けました。
しかし選手会は足並みを揃え,辛い無給期間を凌ぎ続けます。開幕後に4月13日までの86試合がキャンセルとなり先に音を上げたのは選手会を甘く見ていたオーナー側でした。最終的に,年金拠出額の50万ドル増額,余剰金のうち50万ドルの再分配という条件を引き出すことに成功したのです。巨万の富を持つ24人に対して歴史的な勝利をつかみ取りました。
ただ1点忘れてはいけないのは,ストライキによって煽りを受けたのは野球ファンも同じであったということ。1971年には1球団平均で35,000人を動員していましたが,ストライキ後の1972年には僅か21,000人に急落するなど深刻な収益悪化に陥ります。また,選手も試合のたびにブーイングを浴びるなどの洗礼を受けることとなりました。2022年ロックアウトを経験した我々にも少し理解できる感情かと思います。
第7章 保留条項の打破とフリーエージェント
スポーツ史に残るストライキののち,Millerはすぐさま1972年12月に失効を迎える”CBA-3”の交渉を開始。ここでは最低年俸の引き上げだけでなく,労使双方で年俸紛争が発生した際の第三者による仲裁,そしてFloodが完遂できなかったトレード拒否権などを盛り込んだ案を提示しました。
当然これも1972年中には交渉が進まず,翌1973年2月8日にはオーナー側による「ロックアウト」の実施が発表されます。2年連続での開幕キャンセルが危ぶまれましたが,2月25日には選手会の要望をほぼ了承した労使協定が成立し,春季キャンプがスタートしました。
1973年12月5日にカブスとエンゼルス間にてトレードが成立しますが,カブス側のパッケージに含まれていたRon Santoが史上初となるトレード拒否権を発動。(後にカブス解説者となったSantoですが,この10-5ルールがなければ解説者になることもなかったかもしれませんね。)
1974年2月11日には前年に10勝を挙げたツインズのDick Woodsonが提示された23,000ドルという年俸に不服申し立て。史上初となる裁判所での仲介が行われWoodsonの要求した29,000ドルの年俸が認められるなど,”CBA-3”は目に見える成果を生み出しました。
ただ,これほどまでに選手会優位な協定を成立させることができても,この時点で悪しき”保留条項”の撤廃には至っていません。条項の打破,ひいてはフリーエージェント制はどのようにもたらされたのでしょうか。
1972年オフ,ロサンゼルス・ドジャースがカルフォルニア・エンゼルスとのトレードに合意し,若手右腕Andy Messersmith(アンディ・メッサースミス)を獲得。1973年には14勝,翌1974年には20勝を挙げてサイヤング賞2位となる大活躍を果たします。
しかし,そのオフにMessersmithが希望する「(10-5ルール対象ではなかったため)自身をトレードに出さない」という条項をWalter O'Malleyオーナーが拒否し,合意に至らず。ここでMessersmithが選択したのはWoodsonのような年俸調停による仲裁ではなく,契約書にサインをしないまま1975年シーズンをプレーするというものでありました。
この選択が,MLBとスポーツ界の運命を変えることになるのです。
reserve clause(保留条項)をもう一度振り返ってみます。この条項はユニフォームプレイヤー契約の第10項(A)に明文化されており,他球団と別の契約を結ぶ自由を制限するものです。当時は単年契約しか存在しませんでしたが,この条項によって球団間の移籍や年俸上昇を制限していました。また,これに違反した場合にはコミッショナーにより出場停止処分が下されることはガーデラ事件のとおりです。
そして,保留条項には『選手が契約書にサインしなかった場合,オーナー側の権限で1年の契約を更新することができる』とも明記してあったのです。Messersmithの場合はここにあたりますよね。
しかしMillerやMossはここの文言を見逃しませんでした。要するに「サインしないまま1年プレーした後は,保留条項から解き放たれる」という解釈もできるわけです。
この点はMillerが委員長に就任前から気づいていたようで,就任後も年始めの選手総会で何度も選手へ徹底喚起。Messersmithもその点を承知した上でサインをせず,シーズン後には労使協定で定められた苦情紛争の調停人に法解釈を求めることができればフリーエージェントとなれると予感していました。
もちろんオーナー側は「サインしないまま1年プレーした後も,また1年の契約をオーナー権限で更新できる,永久に契約更新できる」という逆の解釈を述べ続けていましたが,ここにきて『1年』という解釈が調停人によって覆されることを恐れ始めます。
例えば,Walter O'Malleyオーナーらドジャース経営陣は1975年夏に「Messersmithは組合の手先であり,フリーエージェントを目論んでいる」とマスコミを巻き込んだ激しい個人攻撃を始めます。オーナー側は自分たちの解釈に自信を持てずにいたのです。
ここで怖じ気づいたMessersmithは「目的はフリーエージェントではなくトレード条項。これが解決すればいつでもサインする準備がある。」と述べてしまったのです。
そこでMillerは,Messersmithがドジャースとサインした場合に備え,もう1人の名投手に声をかけます。60年代からオリオールズで活躍し,通算184勝を挙げていたDave McNally(デーブ・マクナリー)です。McNallyは13年プレーしたのち,1974年オフにモントリオール・エクスポズへトレード移籍。しかしエクスポズから提示された年俸に納得せず,サインをせずに1975年シーズンをプレー。同年6月には成績悪化などにより,突如として引退をしていた経緯がありました。彼はMessersmithと同様の状況であっただけでなく,オリオールズ時代は選手委員として選手会の活動にも精力的であったため,Millerらの意向に全面協力する構えを見せます。
そして1975年シーズンの最終日,選手会はMessersmithおよびMcNallyの調停を申請。調停人Peter Seitz(ピーター・サイツ)によって審理されることが決定します。
調停の事情聴取の数週間前,McNallyの住む米国最北のモンタナ州ビリングスに,ある男が訪れます。その男とはエクスポズのJohn McHale球団社長でありました。「”たまたま”ビリングスの空港に寄った」としてMcNallyとの面会を持ちかけます。ここでMcHaleは”来季プレーしなくても良いので,サインさえしてくれれば2万5千ドルを支払う”と契約を要求。しかしMcNallyは1974年オフからMcHaleに不信感を持っており,プレーしないのに年俸を受け取るのは道理に反するとして断固拒否,徹底抗戦の姿勢を崩さなかったのです。Millerが植え付けた選手会の団結力はここでも功を奏しました。
かくして1975年12月に審理開始。調停人であるPeter Seitzは連邦調停局長顧問,国防総省労使関係局長,全国賃金安定委員会委員などを歴任したスペシャリスト。前年までNBAにおける調停人をも務めていました。
オーナー親派のコミッショナー・Bowie Kuhnは事ある毎に「保留条項が無くなれば野球は終わる」とSeitzに囃し立てますが「今回の調停で任せられたのは”1年の契約更新”についての法解釈のみ。その懸念は労使協定で解決すべきだ。」と一蹴されます。
そして議論の末,1975年12月23日にSeitzは”1年”は文章どおり”1年のみ”であるとの解釈を踏まえ,以下の裁定を公表しました。
また,Seitzは「MLB球団はMessersmith&McNallyが新たな契約を結ぶにあたって,交渉や取引を阻害することを禁止する」との通達も行い,晴れて”フリーエージェント”となることに成功したのです。
実際のところ,上記の通達を無視したオーナー側によってMessersmithは市場から締め出されてしまいますが,1976年シーズンが開幕して2日後にはブレーブスの提示した年あたり33万ドルという超高額な3年契約に合意。
McNallyはフリーエージェントとなったものの,引退を撤回することはなく,モンタナ州で自動車販売のセカンドキャリアを続けました。
裁定ののち,1976年2月4日には連邦地方裁判所においてもSeitzの判決が支持され,事実上保留条項は崩壊。仮に保留条項を残そうものなら,サインを拒んだ選手が全員,フリーエージェントとなってしまう事態に陥っていました。
これを受け,1976年7月12日に締結された”CBA-4”ではフリーエージェント制が明確に定められることとなります。
この制度によって1976年オフにフリーエージェントとなったReggie Jacksonが5年300万ドルという高額契約でヤンキースに移籍すれば,Joe Rudiが5年200万ドルでエンゼルス入りするなど,10年前の最低年俸が僅か6,000ドルに留まっていたとは思えないほどの躍進を見せたのです。
第8章 Millerの偉大なる功績
フリーエージェント制が導入されたMLBはどうなったでしょう。Kuhnコミッショナーが言うところの「崩壊」を迎えましたか?
皮肉にも,フリーエージェント制度導入後にはMLBの全体収益は年々増加。それまでヤンキースやアスレチックスらが連覇を成し遂げていたワールドシリーズも,戦力均衡によって多くのチームが出場。オーナー陣のポケットマネーも右肩上がりで,球団も30チームまで拡張されました。
役目を大いに果たしたMillerは1982年に委員長を引退。Mossの後に法務顧問を務めていたDon Fehrが後を継いでいます。もちろん,その後も1994-95年に最悪のストライキが巻き起こりましたが,これもMiller時代から団結力を高め続けた証左でしょう。
Millerの功績,といってもここで書き切れるものではありませんが,個人的にピックアップしてみます。
まずは貧弱であったMLB選手会を,のちに「全米最強の労働組合」と評されるまでに成長させたことでしょう。委員長であっても,あくまで戦うのは選手であるとのスタンスを保ち,労使協定の策定やストライキ決行にあたっても選手の意見を第一としました。それによってMillerありきの選手会ではなく,選手ありきのユニオンを形成することができました。もちろん,1995年のドジャース・Brett Butlerが新人Mike Buschへ引き起こした一件などは気持ちの良いものではありませんが,それほどまでに当事者意識の高い組合となっていました。
次に年金計画・労使協定の策定でしょう。それまで明文化されていなかったルール・慣習を,専門家としての知見で徹底的に明文化し,オーナーが搾取していた利権を正しい在り方に変えました。この労使協定は他スポーツにおいても見本として君臨し,いまなお世界中のスポーツ選手の権利を保護し続けています。
そしてやはり保留条項の撤廃に至ったことはスポーツの歴史において屈指の功績となったと確信しています。もちろんMessersmithやMcNallyの存在やFloodの勇気も讃えられるべきですが,就任直後から保留条項の撤廃を目標とし,貫徹・完遂した事実を忘れてはいけません。
こういった功績があったものの,Millerはベテランズ委員会による野球殿堂入りを果たすことなく2012年に逝去。しかし2019年にはようやくクーパーズタウンにその名が刻まれました。”全く違うボールゲーム”を戦った男の功績はこれからも語り継がれていくでしょう。
最後に
2022年冒頭のロックアウトや労使協定協議は我々ファンにとって大きなストレスでありましたが,こういったCBAの歴史やMillerの戦いを知ると,見え方が変わってくるかもしれません。現に2022年においてもオーナー側は贅沢税閾値の引き下げなどを提唱していましたが,選手会の抵抗はもっともであったと言えます。
よく,「MLBにサラリーキャップを導入すべきか」といった議論がファンによって行われますが,成り立ちからして不可能でしょう。というかしたくても出来るものではありません。NBAやNFLはある意味こういった権利を失ったリーグと考えています。
この1966年以降に起きたMLB選手の権利運動が一人でも多くの野球ファンに知ってもらえればと考え,noteにまとめてみたものの,あまりにも壮大な量になってしまいました。読みづらかったら申し訳ありません。
【2023/6投稿の続編】
<以下,参考文献>
Marvin Miller|Wikipedia
History|MLBPLAYER.com
Major League Baseball Players Association|Wikipedia
1972 Major League Baseball strike|Wikipedia
Flood v. Kuhn|Wikipedia
Seitz decision|Wikipedia
Reserve clause|Wikipedia
Curt Flood’s 1969 Trade to the Philadelphia Phillies|SABR
Danny Gardella and the Reserve Clause|SABR
Alito: The Origin of the Baseball Antitrust Exemption|SABR
Federal Baseball Club of Baltimore, Inc. v.
National League of Professional Baseball Clubs|SABR
Arbitrator Seitz Sets the Players Free|SABR
Flood v. Kuhn|SABR
A contentious history: Baseball's labor fights|ESPN
1968 World Series Game 1, Tigers at Cardinals, October 2|Baseball Reference
Flood Letter|JOHN HOPKINS Sheridan Libraries & University Museums.