【MLB】ピーター・ユベロスと「共同謀議」
以前,Marvin Miller(マービン・ミラー)がMLBPA初代委員長に就任して以降の選手権利拡大についてをまとめました。
Andy MessersmithとDave McNallyによる契約拒否を発端としたフリーエージェント制度の導入後,うなぎ登りで選手年俸が上昇したMLBでしたが,1985年に暗雲が立ちこめます。
今回まとめるのは,フリーエージェント市場を凍結させたある男の謀略について。かつてオリンピックの商業化を大成功に導いた”英雄”は,MLBで一体何をやろうとしていたのか。悪名高い「共同謀議」について簡単に掘り下げていきます。
第1章 ロス五輪の魔法
その膨大な経済効果に依るものか,今や国を挙げてのムーヴメントとなりつつあるオリンピック誘致。2021年に無観客で開催された東京オリンピックですら日本全国で6兆円の経済波及効果を生み出したとの試算もあります。
古くは1896年から開催されているオリンピックですがが,現在のようなゴールドラッシュ的存在に至ったのはごく最近であることはご存知でしょうか。
例えば1976年のモントリオール夏季オリンピックにおいては,世界初の開閉式スタジアム「The Big O」の建設に着手したものの,石油危機の原料高や工期の遅れが顕著となり,遂にはオリンピックの開幕にスタジアムの完成が間に合わないという事態に陥ります。開閉式スタジアム構想を諦めたものの,当初予算の3億2000万ドルを大幅に超過する16億1000万ドルを費やす結果に。この負債を返済するために増税を行ったものの,完済までには30年もの期間を要しました。(ちなみに「The Big O」は改修を行ったのちにモントリオール・エクスポズ(現ナショナルズ)の本拠地として二次利用。)
続く1980年のレイクプラシッド冬季オリンピックでは,過去大会の会場を流用するなどして倹約姿勢を見せたものの,最終的には当初予算を300%以上も超過する結果に終わり,ニューヨーク州が負債返済に奔走しました。(2016年時点の統計結果においてもモントリオールは夏季五輪最高,レイクプラシッドは冬季五輪最高の超過率を誇っていたほど)
隣国カナダのモントリオール,そしてニューヨーク州がオリンピック開催によって大きな打撃を抱えたことで,4年後に夏季五輪開催を控えるロサンゼルス市は揺れていました。そもそも1984年の夏季五輪の開催地に立候補したのもロサンゼルスのみという不穏な状況下であったことも踏まえれば,今後の大会そのものを占う試金石であったでしょうか。
そんなロス五輪の大会組織委員会に1人の男が舞い降ります。男の名はPeter Ueberroth(ピーター・ユベロス)。大学卒業後,弱冠22歳にてTrans International Airlinesの副社長に成り上がると,旅行会社First Travel Corporationを設立し,北米2番目の規模まで会社を成長させます。
そういった経歴や経営手腕を持つUeberrothを,窮地のロス五輪組織委員会がリクルートするに至りました。
博打ともいえるUeberrothの委員長就任は思わぬ成果をもたらします。まず,Ueberrothは既存の放映権体制・スポンサー体制に待ったをかけます。
それまで寛容に売り出していた放映権を,1カ国につき1つのTV局のみに限定。それによってABC放送局が全米の独占放映権を2億2500万ドルという価格で入札し,世界を驚かせます。
スポンサー権についても,1980年レイクプラシッド五輪では371社存在したスポンサーを僅か30社まで制限。更に1業種1社という条件を付けたことで競合他社との熾烈な入札戦を生み出し,膨大なスポンサー収入を得ることに成功します。
大会会場についても1932年に開催されたロス五輪の会場を流用した他,メインスタジアムや水泳競技場の設立費用をセブンイレブン社やマクドナルド社に負担させたことで,公費(税金)を1ドルも出費させることなく,大会を成立させたのです。
といっても,Ueberrothはオリンピックが終わるまで「今大会は赤字である」と何度も喧伝し,失敗を恐れるロス市民のプライドも巧みに利用。5000人もの無償ボランティアを動員するに至りました。
また,それまでは単なる広告塔的な存在であったマスコットキャラクターを,商用化・グッズ化の対象としたのもロス大会が初めてといわれています。
結果として,Ueberrothの先鋭的なスタイルによって主導された1984年の夏季五輪は2億5000万ドルもの黒字を産み出すことに成功。赤字必至といわれたオリンピックを,金の卵へと変貌させた手腕は,「ユベロス・マジック」「ユベロスの魔法」と評されるほどでした。
第2章 Bowie Kuhn時代の終焉
少し時を遡って1968年,MLBにて歴史を変えるような出来事が起こります。それまで20年以上に渡って見過ごされてきた最低年俸6,000ドルが,粘り強い労使交渉によって10,000ドルに引き上げられる大波乱が起こります。このスポーツ史上初となる労使協定(CBA)策定に尽力したのが初代MLBPA委員長・Marvin Millerであることは以前のnoteでまとめたとおりです。この1968年には,CBA締結のみならず選手年金の拠出額引き上げも勝ち取っており,選手会のエンパワーメントの拡大を予感させた時代といっていいでしょう。
そんな改革の時代にあって,苦虫を噛むような表情を浮かべていたのが各球団のオーナー陣です。これまでは自分たちの言いなりであった選手が,団結して権利を主張し始める事態は思いもよらぬ大誤算であり,あの手この手で抵抗を続けます。その一手として,オーナーらの”傀儡要員”とも言える元軍人のWilliam Eckertをコミッショナーに任命することで,恣意的にリーグを操ろうとしました。
ただ,1968年には先のCBA-1が締結されるなど謀略は奮わず,オーナーたちの怒りの矛先は操り人形であったEckertに向けられてしまいます。同年12月にサンフランシスコで開かれたオーナー会議にてEckertが急遽解任されると,それまでナリーグで法務顧問を務めていたBowie Kuhn(ボウイ・キューン)が暫定コミッショナーとして就任することとなりました。
そこから15年もの間,Kuhn体制が続くわけですが,それはKuhnが如何にオーナー達にとって都合の良い人物であったかの証左でもあります。彼の在位中でもっとも有名な「カート・フラッド事件」では半世紀以上に渡って影響力を持ち続けた保留条項を守るためにオーナー陣と結託。最終的にはKuhnコミッショナー側が勝利を収めるわけですが,MLBPAとの対立が決定的となった出来事とも言えるでしょう。
しかもKuhnが勝利を収めたといえるのはこの一回のみであり,Kuhn時代には「最低年俸が10,000ドルから40,000ドルに上昇」「プロスポーツ史上初のストライキ成功」「保留条項の撤廃およびフリーエージェント制の導入」「トレード拒否条項の導入」といった,選手会の勝利といえる出来事が立て続けに起こっていきました。
そして1981年にFA移籍の代償として人的補償制度の導入を目論むオーナー陣営と,断固反対の立場を取る選手会の間で対立が深まると,6月12日から7月31日までの50日間におよぶストライキが発生。多大なる損失を負いながらも選手会側が勝利を収めた一方,1982年のオーナー会議ではKuhnを続投させないことが決定。後任者が決まるまで在位したものの,最後は自身が胡麻を擦りつづけたオーナー達にも背を向けられる結末を迎えたのです。(もちろんKuhn在位中には観客動員数や放映権収入を倍増させた功績や,DH制度の導入といった財産もあります。)
そして1983年のウィンターミーティングでは当時ブリュワーズのオーナーであったBud Seligが委員長を務める「コミッショナー調査委員会」が設立。ここでイェール大学総長のBartlett Giamattiと,翌1984年のロス五輪の実行委員長を務めていたPeter Ueberrothが最有力候補に挙がります。しかしUeberrothは翌年にオリンピックが控えていたことを理由に候補者となることを辞退。それもあってか,Kuhnの任期を60日間延長させることでSeligらは後任者探しを継続します。
それでも,前項の放映権・スポンサー権の妙技に惹かれたオーナー陣営(主にSeligやReinsdorf)がKuhnの倍額となる45万ドルの破格オファーを提示したことで,念願のUeberroth登用に漕ぎ着けます。(もちろん任期は五輪後の10月1日から)
この際,オーナー陣営がUeberrothに望んだのは「FA権導入によって肥大化したサラリーの抑制」「”自称”赤字球団の立て直し方策」といったものでありました。
第3章 Ueberrothの辣腕
Ueberrothは就任直後からMLBの諸問題解決にあたります。例えばかつてカジノのスタッフに従事していたとしてKuhnが与えたMickey Mantle及びWillie Maysへの永久追放処分を解除。これには往年の野球ファンらが歓喜しました。
また,1985年の「ピッツバーグ薬物裁判」においてはコカインの蔓延に厳正に対処。計11名の選手に出場停止処分を言い渡し,「年に数回の抜き打ち薬物検査(尿検査)の導入」を提言しました。この薬物検査は選手会からの反発もあって導入することは叶いませんでしたが,その後の潮流を見れば先見の明があったことがよく分かります。
そして,長年MLBが頭を抱えていた「スーパーステーション問題」にもメスを入れます。
1976年,アトランタの地元テレビ局WTBSのオーナーであったTed Turnerがアトランタ・ブレーブスを買収。当時のアメリカのテレビ事情といえば
「①地元テレビ局によるローカル放送」
「②ABCやNBCといった大手ネットワークによる全国放送」
の組み合わせによって成り立っていましたが,通信衛星を利用したWTBSは”ローカル放送を遠隔地まで放映”することに成功していました。すなわち,球団買収によってブレーブスの試合をABCなどのネットワークに頼らず全国放送することができたのです。当時としては革新的な24時間放送や旧作映画の専門番組なども相まって,加入者は右肩上がり。1977年には同じくアトランタのNBA球団であるホークスを買収し,この試合も全国に放送。従来のシステムを根本から覆したTurnerは,このテレビ局を「スーパーステーション」と銘打ちます。スーパーステーション方式によって,カブスやブルズの試合を発信するシカゴのWGN,ヤンキースの試合を発信するニューヨークのWPIXなども台頭していくこととなります。
しかし,このスーパーステーションは大きな禍根を産み出します。それまで各球団の本拠地にある地元テレビ局の領分や,全国放送の放映権を手にしていたABC・NBCなどの全国テレビ局の販路を著しく侵害し始めたのです。
そこで,Turnerが躍進を遂げた1970年代後半以降,Kuhnコミッショナーが中心となって連邦通信委員会にスーパーステーションを規制するための働きかけを行いますが,連邦著作権法の壁にぶつかるなどして難航。
そんな最中に着任したUeberrothは,こと放映権を扱う点で既に実績があり,本件の解決が期待されていました。
Ueberrothは就任直後から,スーパーステーションの恩恵を最も享受しているTurnerと交渉を進め,全国放映そのものは規制しない代わりに,1985年1月に『Superstation Tax(スーパーステーション税)』の導入に成功。WTBSは5年総額3000万ドルをMLBへ支払うこととなったのです。(同年5月までにWGNやWPIXなども課税を受け入れた。このTaxによる収益をスーパーステーション未提携の球団などに分配したことも評価に繋がった。)
就任から立て続けに毅然とした問題解決を続けるUeberrothの姿はまさに「コミッショナーの鑑」であり,それまでのFord FrickやEckert,そしてKuhnといった肩書きだけの老耄とは一線を画す人物に見えました。
1985年オフに異変が生じるまでは。
第4章 Collusion(共同謀議)
1975年のMessersmith&McNallyを発端とした保留条項の撤廃によって,1976年オフから導入されたフリーエージェント制度。これによって,MLBにおけるスター選手の移籍が活発となっていきます。Ueberrothが就任直後の1984年オフも例に漏れず,通算300HRのFred Lynnが5年680万ドルでオリオールズに移籍。スプリッターを武器に,歴史に残るリリーバーとして名を馳せたBruce Sutterも6年480万ドル+利子の大型契約を手にブレーブスへ加入。結果的に,この年FAとなった46名中26名が他球団へ移籍することとなりました。
しかし翌1985年のオフに異常事態が起こります。フリーエージェント権を手にした35名のうち,他球団へ移籍したのが僅か4名に留まったのです。(更に言えばこの4人全員は所属元からオファーを提示されていなかった)
例えばそのオフ一番の目玉選手であり,タイガースをWS制覇に導いたKirk Gibsonは,他球団から1件もオファーを受けることなく僅か1年68万ドルで残留。
GibsonのチームメイトであったLance Parrishも,それまでタイガースと4~5年の長期契約を話し合っていたにも関わらず,10月末になると急遽「2年契約が最大限のオファー」と突きつけられてしまいます。
のちの殿堂入り捕手Carlton Fiskに至っては,ヤンキースから高額オファーを受けたのもつかの間,Steinbrennerオーナーからオファー破棄の知らせが届き,やむを得ずホワイトソックスに残留。明らかに何かが起きていました。
そして恐ろしいことに,この事態を引き起こしていたのが辣腕コミッショナーのPeter Ueberrothであったのです。
MLBの情勢を振り返ると,1980年から1984年にかけて,平均年俸は2倍以上となる32万6000ドルまで上昇。1981年から1984年の4年間でメジャー経験が6年に満たない選手と200件以上の複数年契約が成立。契約期間を満了せずにMLBの舞台から去った選手も一定数存在し,球団の負債に繋がっていきました。当時Ueberrothが就任した折には,オーナー会議にて「球団の累計赤字額は4,000万ドルもある」と吹っかけられます。もちろんUeberrothは,帳簿も確認した上でそれが誇張されていることに気付いていたようですが,Ueberrothは純然たるビジネスマン。赤字や負債をどうにかしろと言われれば,それに応える妙案があったのです。
FA市場が本格化する直前の1985年10月22日,カージナルスのBuschオーナーが経営するAnheuser Buschの本社に,全球団のオーナー及びUeberrothが参集。秘密裏の会合が行われます。
ここでUeberrothがオーナー陣営に啖呵を切ります。
要するに,「出費を抑えたい・損失を減らしたいのならばフリーエージェントによる補強をやめろ」と暗に促したのです。
この2週間後にはフロリダ州・ターポンスプリングスに各球団のGMを招集。ここではUeberrothが「野手に3年以上,投手に2年以上の契約を提示することに慎重になれ」という恐ろしい”助言”を行います。
この2つの会合を元に,オーナー陣はUeberrothの提案を支持。球団相互間にて「他チームのフリーエージェント選手にはオファーを行わない」といった紳士協定が結ばれたのです。冒頭のヤンキースのCarlton Fiskへのオファーは,この紳士協定によって覆されたということがわかります。
それまでフリーエージェント交渉に熱を帯びていた12月のウィンターミーティングについても,この年はひと味違いました。どの球団も,自軍のFA選手以外には全くオファーを行わないまま,終わりを迎えます。当時のLos Angeles Timesは,オーナーたちの陰謀に半ば気付いた上で「自軍選手との交渉期限となる1月8日にはオーナー陣営の結託は崩壊するだろう」と楽観視。
しかし実際には,無所属&無給となることを恐れた選手らが他球団へ移籍することなく残留を選んでいます。
併せてUeberrothは,アクティブロスターの人数を従来の「25人」というものから「最高25人,最低24人」という狡猾な内容に変更。全球団は示し合わせたようにロスター人数を24人に統一したのです。こういった動きを見てもコストカットのために談合を行っていることは明らかでした。(これについては選手会が仲裁申し立てを行ったもののMLB側が勝訴。)
そして,このUeberrothが画策した一連の行為を「Collusion(共同謀議)」と呼ぶのです。
この共同謀議は1986年・87年オフにも影響し続け,様々なエピソードを生み出します。
1985年に打率.320 70盗塁 OPS.880を記録した弱冠25歳のTim Rainesでしたが,FAになると案の定モントリオール・エクスポズ以外からのオファーを受けることなく1月8日を迎えます。ここでRainesは他球団からのオファーが来ることを信じて残留を拒否。当時は移籍元の球団と1月8日までに契約しなかった場合,5月1日になるまで移籍元との再契約ができないシステムであったため,全盛期のRainesにとっては大きな賭けでありました。残念ながら共同謀議の結束は固く,Rainesは5月1日まで1つのオファーを受けることなく,たったの150万ドルで残留。皮肉なことに,4月に1試合もプレーできなかったにも関わらず50盗塁&自己最多18本塁打を記録するなど,キャリアイヤーとなってしまいます。
ちなみに彼は前年の「ピッツバーグ薬物裁判」にて証言した1人であり,後ろポケットに入れたコカイン入りのガラスバイアルが破損することを恐れて,盗塁の際には必ずヘッドスライディングをしていたクレイジーなお方。
Rainesの同僚で,こちらも後の殿堂入り外野手Andre Dawsonは走攻守に優れた中堅手でありましたが,序章でも触れたエクスポズ本拠地「The Big O」の堅い人工芝で膝にダメージを負っており,是が非でも天然芝の球団へ移籍を望んでいました。
しかしこちらもウィンターミーティングを過ぎてもエクスポズ以外からのオファーが来ることがありませんでした。これを受けて,彼の代理人が会見を行います。代理人の名はRichard ”Dick”Moss。お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが,Marvin Miller委員長時代にMLBPAの法務顧問として起用された非常に頭の切れる人物。もとより代理人業に興味を示しており,転身を果たしていました。
この時点でのエクスポズのオファーは「2年200万ドル(年100万ドル)」というものであり,これは1984年オフに得ていた年104万ドルを更に下回るもの。これに怒ったDawsonとMossは奇策に打って出ます。
残留交渉を行わずに1月8日を過ぎると,3月6日にシカゴ・カブスに電撃加入を果たしたのです。実はDawsonとMoss,白紙の小切手をカブス側に提示し「希望の額を書いて貰えれば,無条件にその額で入団する」と言い寄ったのです。これほどの好条件を拒否することすなわち”共謀を認めること”ですから,70万ドルというエクスポズ以下のオファーを渋々Dawson側に提示。それを受け入れたことでカブスへの移籍が実現したのです。ちなみにリグレー・フィールドは天然芝であり,膝に不安を抱える彼にとっては,意中の球団を仕留めることができたとも言えます。実際に移籍初年度からMVPを受賞しています。
同じくMossが代理人を務めていたのは通算250勝の大投手Jack Morris。1986年には21勝を挙げたこともあって,タイガースに5年900万ドル級の長期契約を求めていましたが,先述の「投手への2年以上の契約に慎重になれ」といったUeberrothの”助言”に基づき,タイガースの提示額は僅か250万ドルの2年契約に留まります。
ここでMorrisらが講じた奇策も中々面白いです。Mossは会見で「Morrisは今後,ツインズ,ヤンキース,フィリーズ,エンゼルスのみと契約する。彼が好きな球団を1-4位まで決めて,1位の球団から順番に彼の希望額を提示する。それに一番早く応じた球団と契約する。」といった策を発表。これはオーナー陣営に共謀を認めさせるだけでなく,各球団のファンに「なぜオファーを呑めば確実に取れる大エースのMorrisに契約を提示しない!?」といった疑念を抱かせることができたわけです。最終的に,この4チームはMorris提示したオファーを断ったことで,タイガースと1年185万ドルの契約を結んでいます。
そして共同謀議の余波は海を越えて日本まで到達。1986年にブレーブスで27本塁打を記録したBob Hornerも,他球団からのオファーが来なかったために4月時点でプレーできず。東京ヤクルトスワローズから3億円のラブコールを受けたことで来日。赤鬼と呼ばれた男は最初の2試合で6打数5安打4本塁打を記録するなど,格の違いを見せつけました。
「ビジネスマン」によって掌握された移籍市場は厳冬を迎え,フリーエージェント選手による補強をやめたチームの収益は平均して15%程度増加したと見られています。
では,選手達はこの状況を甘んじて受け入れたでしょうか?そんなはずはありません。6,000ドルの最低年俸を泣く泣く貰い続けるかつての弱者の姿はどこにもありません。既に20年近くの歳月によって成長し続けた選手会(MLBPA)が巻き返しを見せるのです。
第5章 厳冬終結と名物オーナー
この文言は選手会とオーナーで結ばれた団体交渉協定第18条 (H)に記載されていた一文であり,オーナー同士またはプレイヤー同士が談合してはならないことを示しています。
もちろんUeberrothはこれを把握しておりましたが,「共謀してフリーエージェントを凍結させる,ということを直接口にしなければ良い」と確認していたそうです。
もちろんそれはコミッショナーやオーナー陣営の論理。MLBPA委員長に就任していたDon Fehrは,1986年2月,1987年2月,そして1988年1月と,計3回の仲裁申し立てを行います。FehrはMossが代理人へ転身したのちにMillerの腹心として活躍した人物であり,それまでの労働争議にも深く関わっていた男でありました。
この仲裁における調査によって明らかになったのはUeberrothの徹底的な契約管理でした。
共同謀議下においては「information bank(情報銀行)」というものが存在し,”誰に” ”何万ドルの” ”何年の”オファーを行っているかをオーナーやGMが逐一報告。Ueberrothや他球団のエグゼクティブがこの情報にアクセスすることができたため,全球団が画一的にサラリーを抑制することができたのです。特に,複数年契約を締結する際にはUeberrothへお伺いを立ててから…といった話もありました。
1985年オフの「共同謀議Ⅰ」を仲裁したThomas Roberts判事と,1986年・87年オフの「共同謀議Ⅱ・Ⅲ」を仲裁したGeorge Nicolau判事は計71日間の審理と618件の証拠資料によって精査。14,028 ページの記録を作成し,それぞれ1987年9月・1988年8月・1990 年7月に「オーナー陣営の共謀を認め,選手会に賠償を行うこと」といった判決を下しました。
共同謀議を主導したUeberrothは,世間からの批判やオーナー陣営からの不信もあって,1989年の任期満了をもって辞任。後任にはかつて名前の挙がったBartlett Giamattiが就任しました。
(Giamattiはイェール大学総長を務めたのち,ナリーグ理事長に就任していました。コミッショナー就任直後,野球賭博に関与していたPete Roseの永久追放処分などを行いますが,心労が祟ったのか心臓発作で死去。就任から僅か5ヶ月での出来事です。)
また,各球団は賠償金として選手会に計2億8000万ドルの支払いを行うことで1990年に最終和解。3年にも及んだ厳冬の時代が終結しました。(その直後,1993年球団拡張によって1億9000万ドルの参入金がロッキーズ&マーリンズからもたらされた訳ですが,このエクスパンション自体が共同謀議の賠償金をあてがうための策でありました。)
後年,共同謀議をヤンキースのオーナー・George Steinbrennerはこう振り返ります。
これほどまでに用意周到な共謀を行ったUeberrothにも驚きますが,このSteinbrennerもなかなかに鈍感といえます。
FA制度導入以降,マネーゲームを仕掛けてReggie Jacksonらを補強し再び王座に返り咲いたヤンキース。この共同謀議自体,「球団の赤字が~」という目的もありましたが,一説によれば「Steinbrenner潰し」であったという見方もあります。
面白いことに,SteinbrennerはFA制度の有用性に気付いていたにも関わらず,FA制度を使えなくなる共同謀議を受け入れていたのです。当時,育成やドラフトも上手くいっていなかったヤンキースにとって,一体何の勝算があったのでしょうか。
4球団に上から順位をつけて,オファーを突きつけたJack Morrisも,1986年オフのSteinbrennerとの意外なやりとりを口にしています。
これを見ると,Steinbrennerのなかでも様々な葛藤があったのでしょうか。
結局,他のオーナーからの敵意や嫌悪感に鈍感であったSteinbrennerは,共同謀議時代が終了した1990年に永久追放処分を受けています。これも皮肉なことに,FAで獲得したDave Winfieldとの関係がこじれ,彼の弱みを握ろうとマフィアを雇ったことが露見。処分を下される際にも,他のオーナーから助け船も出されないというオチがつきました。(その後,1992年に処分が解除)
また,「FA市場の凍結」が収益増加に繋がると読んでいた男がもう1人いました。1980年までアスレチックスのオーナーを務めていたCharlie Finleyです。1977年にFA制度が導入される際,オーナー会議でこんな内容を口走ります。「我々がFA選手と契約しなければ,そのうち選手たちから泣きついてくる。それで年俸も低く抑えられるじゃないか。」というもの。まるで10年後の共謀を予言するかのような推理でありましたが,当時の他球団オーナーはFinleyの論理を理解できず。結局,来たるFA時代によってアスレチックス選手が次々と移籍。度を超える倹約家であったFinleyは特段彼らを引留めることなく,チームは低迷。1980年にはチームを売却することで幕引きとなりました。
2023年6月15日現在,アスレチックスはオークランドからの移転に揺れており,ネバダ州の上院・下院ともにラスベガス新球場への費用捻出を決定。思えば,1968年にオークランドへ野球を連れてきたのはFinleyオーナー。いま,なにを想うでしょうか。
最後に
今回はFA制度の導入後に起きたひとつの出来事にフォーカスを当ててみました。一つ注釈するのであれば,Ueberrothはそれまでの「拝金主義」「権威主義」なコミッショナーとは大きく異なり,「ビジネスマン」であったということに尽きます。すなわち,「赤字・負債の健全化」を大義としていただけであって,選手会を敵視したり選手の権利を奪うことに心血を注いだわけではないのです。もちろん,過程の段階では選手会を大きく敵に回したわけで,あきらかにアウトな談合を行っている点は擁護できません。
ただ,こうしてみると歴史の中でもアウトライヤーなコミッショナーですよね。「現実主義」とでもいいましょうか。FA制度の穴を巧みに突いてきたという印象です。
当アカウントではこれまでもMLBの歴史にフォーカスしたnoteを掲載してきましたが,次にまとめるとすればFay Vincentと1994-95年ストライキを同巻にして出すくらいですかね。
<2023年7月追記>続編書きました
<以下,参考文献>
Wikipedia|Major League Baseball collusion
SABR|The Empire Strikes Out: Collusion in Baseball in the 1980s
SABR|1985 Winter Meetings: Free-Agent Freezeout: Collusion I
SABR|1986 Winter Meetings: A Rigged Market: Collusion II
SABR|1987 Winter Meetings: Changing Times
Wikipedia|Superstation
Wikipedia|Peter_Ueberroth
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