読み返したい本たち【5位~1位】
『読み返したい本たち』シリーズもこれにて最後である。ということで、30冊を並べてみた(本をあげてしまう癖があるので、本棚にないものも幾つかあり、引用するにあたり買い直した)。もう残りの人生この30冊を読み返すだけでも、十分ではないか、その他の本は全て誰かにくれてやってもいいんじゃないか、そんな気もしてくる。
5位:梅崎春夫『幻化』
戦争を経験した昭和の文学者でこのリストに登場するのは、梅崎春生で最後である。大岡昇平『野火』『レイテ戦記』、大西巨人『神聖喜劇』、中野重治『五勺の酒』安岡章太郎『海辺の光景』、埴谷雄高『死霊』これらを本当に30冊に含めなくて良かったのか、と耳もとで私の本棚が囁いてくる。なぜ入れなかったのだろう。正直に言って、明確な理由はない。彼らは梅崎春生より名の知れた文人ばかりである。しかし、これまで読んできた小説の中で最も生の核心に触れていると感じたのは『幻化』を置いて他にない、そんな気がするのだ。
精神病院から抜け出した五郎は、戦争中に海軍生活を送った鹿児島へ飛行機で向かう。その機内で、交通事故で家族を失い、死のうか迷っているセールスマンの丹尾(五郎の分身)と出会う。丹尾は、五郎になぜか付きまとい、五郎はそれを振り切るも、阿蘇山で再開を果たす。再開した五郎に対して、丹尾は、「まだ生きていたのか」と言い、常軌を逸した賭けー自分が阿蘇山の火口に飛び込み自殺をするかの賭けーを提案する。五郎は、その馬鹿げた賭けに応じる。上記引用は、その最後の下りである。そして、『幻化』を書き終えた梅崎は、1ヵ月後の1965年7月に肝硬変により50歳でこの世を去る。
たったこれだけ説明しただけでは、なぜ本書が「生の核心」に触れていると言えるのか分からないだろう。ただ、そもそも、書いている私が分かっていないのだから分かりようがないのである。分からないということを分かってもらうために、敢えて、たいして何も起こらない物語のプロットだけ紹介した。千夜千冊で松岡正剛も『幻化』について書いているが、それを読んでも、本書を読む意義は今一つ分からない。ただ、「梅崎春夫は只ならぬ一冊を残してこの世を去った」という思いだけは松岡正剛と共有しているように思う。
4位:サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
正直1番迷ったかもしれない。読んだときの衝撃は、非常に大きかったのだが、読み返したときに、がっかりするのではないかという疑念を拭えなかったからである。この本は、読み返すものではなく、心の片隅に、冷凍保存しておくべき本なのではないか、読み返すべきでない本ランキング1位ではないか、と(結局、読み返してこの位置に収まった)。
数十年ぶりに読み返したところ、やはり最初に本書から受けたインパクトは薄れており、その代わりとして、「主人公(ホールデン)の考えーその由来が不明な考えーを変えるような事件は、一切起こらない」という点に目がいった(20歳の時分に読んだ際は、何が何だか分からないくらい衝撃を受け、冷静にその構造を見ることなど出来なかった)。
「ディケンズのデイヴィッド・コパフィールド的な長ったらしく、しょうもない自己紹介はしたくない」というホールデンの宣言から始まる本書。ホールデンは、彼のその絶望的な思考ー世界中のありとあらゆるものがインチキに見えるという思考ーから救い出してくれる他者(スペンサー先生からアントリーニ先生まで)を求めて彷徨うも、誰一人として彼をそこから救い出すことが出来ない。しかし、最後の最後で、自分より無垢な存在である妹、フィービーの行動により、なんとか彼は思い留まる。すごく簡単に言うと、そういう小説だ。
やはり、「なぜホールデンはこのような絶望的な思考に陥ったのか」が一切語られないことには、違和感を覚える(読者がホールデンに感情移入しやすくするための仕掛けと言ってしまえばそれまでなのだが)。それに対して、サリンジャー研究者は、一つの仮説を提示している。すなわち、「戦争で生き残ったサリンジャーは戦争で受けた心的外傷を、直接的には語らず、その小説世界において表現をした」その代弁者が「(死んだ弟のアリーとその兄の)ホールデンであり、グラース家シリーズの(自殺した兄シーモアとその弟)バディーである」という仮説だ。なるほど、面白い。
ところで、偶然としては出来過ぎなのだが、5位で挙げた梅崎春生も、戦争での体験(内面描写)を直接的には語らなかった人であった。語られないもの、語り得ぬもの、それが2人の文学が持つ力であり、魅力なのかもしれない(サリンジャーと梅崎春生を比較した論文を書こうかしら)。ちなみに、私が1番好きなアニメ『攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX』は、『ライ麦畑でつかまえて』のオマージュ作品である。
3位:スピノザ『エチカ』
私は、これまでこのnoteで何度か、スピノザに心酔していることを表明してきた。その彼の世界観を説明し、その魅力を語ることは今回は割愛したい。上野氏や、國分氏の解説書を読んだ方が分かりやすいし、正確だからだ。ここでは、スピノザの動機について若干触れておきたい。
スピノザは、その主著『エチカ』を幾何学的方法で記しており、なぜそのように思考し、執筆したかについては『エチカ』では語らない。その代わりにスピノザは、デカルト『方法序説』よろしく『知性改善論』において、最高善(最高の幸福)のために、世俗の名誉や富、快楽などを捨てる理由について次のように説明をしている。
そして、次のように説明を続ける。
これ以上彼の口からは具体的な説明はなされない(本当にシャイな人だ。なぜ聡明な貴方が、自身の動機一つ分かりやすく説明できないのか)。しかし、スピノザが何か大切なもの(対象)を失い、「失う」という体験にトラウマを抱え込み、それへの根本的解決策(対薬)ー失われることのない永遠無限なものに対する愛ーを見出さないことには、生きることすらままならなかったことだけは分かる。
それは、家族の相次ぐ病死かもしれないし、ファン・デン・エンデンの娘クララとの失恋かもしれない。あるいは、ユダヤ教から破門されたことかもしれないし、暗殺されかけたことかもしれない(詳しく知りたい人は、フレデリック・ルノワール『スピノザ よく生きるための哲学』を読まれたい)。
梅崎春夫、サリンジャーに続いてスピノザまで「トラウマ」文学として整理するのは、少々、乱暴な気もする。しかし、スピノザの「嘲笑せず、嘆かず、呪わず、ただ理解する」という姿勢とその主著『エチカ』で展開される認識論と倫理学は、この前提に立つと、意外と納得がいくし腑に落ちる、と私は考えている。
2位:中上健次『枯木灘』
中上健次を読むと法事を思い出す。解きようのないわだかまり、恨みつらみ、怨恨。土建屋の息子として生まれた私は、そんなしがらみが、邪魔くさく、耐え難かった。だから、大学に進学するにあたり、一人暮らしの出来る関西の大学を選び、そのまま棲みついた。
実家には本が一冊もなかったため、教科書以外で小説を読んだのは、大学に入ってからであった。最初にはまったのが村上春樹で、その次が中上健次だった。都会的で、出自を感じさせない『風の歌を聴け』の村上に対して、土着的で、こてこてな、路地文学『枯木灘』の中上。2人は交わりようがないと思っていた。中上は平成が始まってすぐにこの世を去った。一方、村上は未だ現役で長編小説を書いている。
しかし、調べてみると、2人の生まれは3年しか変わらず、1985年に対談も行っている。中上(当時39歳)は、『地の果て至上の時』、『日輪の翼』を書き上げた後であり、文壇のボスとして君臨していた時期である。一方、村上(当時36歳)は最初の長編小説『羊をめぐる冒険』を世に問い、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を認めていた時期である。
日本文学をほとんど読まないと公言する村上が、中上と村上龍は読み、『羊』を書くにあたり、刺激を受けたと発言していることには、正直驚いた。とは言え、中上と村上の想像力の立脚点の違いは明白である。中上のような土着的な作品は、村上には書きようがなかったであろう。そして、地縁的な繋がりが、資本主義の高度化により徐々に掘り崩されていく過程で、文学も、村上的な、つまり個人主義的な作品が、主流となる。その境目が、1985年前後だったのだろう(以前に書いた通り、この流れは1995年の地下鉄サリン事件を受け、変転するのだが)。
(話を私の身の上に戻すと)1990年に田舎の土建屋の息子として生まれ、その土着を捨て、(一応)都会生活を送る私にとって、中上と村上は、自分の立ち位置を測る参照軸であったし、これからもそうあり続けるだろうと思う。最後にとってつけたようだが、『枯木灘』(それから『岬』『地の果て至上の時』)は本当にすごい作品なので、ぜひ読んで欲しい(今年芥川賞を受賞した佐藤厚志氏も、書店のポップアップで本書を薦めていた)。
1位:タブッキ『レクイエム』
本書は、酷暑のリスボンにおいて、「わたし」が、「わたし」にとって重要な死者(父、タデウシュ、イザベル、偉大な詩人≒ペソア)と再会を果たしていくという筋書きである。副題が「ある幻覚」とある通り、「わたし」は、黄泉の国に足を踏み入れている。しかし、そこに登場する人物(宝くじ売り、美術館のバーテンダー、模写画家など)や料理(フェイジョアーダやサラブーリョなど)の一人ひとり、一つ一つが、生々しく、印象的であるがゆえに、黄泉の国(虚構)と現実(リアル)の境が不分明となり、気づけば、読者である私もその世界に入り込んでしまっている。
このように、タブッキの文筆家としての才能・力量が惜しげもなく発揮されているのが本書である。しかし、本書が、私の中で、「読み返したい本たち」のランキング1位であるのは、その読者に与える影響(読者を変容させる力)の大きさとその質に依るところが大きい。どういうことか。
人は、歳を重ねれば重ねるほど、吐き出しえない思念、吐き出しえない感情のようなものが、胸の内にわだかまり、魂の並行(バランス)を保つことが難しくなる。歳を重ねるということは、別れを重ねるということであり、語っておくべきであったが語れなかったこと、聞いておくべきだったが聞けなかったことが、心に積みあがっていくからであろう。そして、徐々に身動きが取れなくなり、生きていることが苦痛に思えてくる(と、私は考えている)。
本書、『レクイエム』つまり、「鎮魂歌」は、そんな読者の荒ぶる魂を鎮め、悔恨の情を洗い流し、世界と自分との折り合いをつけさせてくれる(作中に登場するヒエロニムス・ボスの『聖アントニウスの誘惑』のように)。だからだろう、その効果を最大化するため、「わたし」と「イザベル」との再会シーンは(会うまでの過程は丁寧に描かれるにも関わらず)敢えて描かれない。「悔恨」に心煩わされている方、帯状発疹に悩まされている方は、ぜひ、本書を読んでみて欲しい。
なお、1位を、『供述によるとペレイラは・・・』とするか『レクイエム』にするか最後の最後まで迷った。私は、シモーヌ・ヴェイユの研究をしていた友人から『ペレイラ』を紹介されたことで、タブッキを知った。『ペレイラ』は、人の生き死にと政治の問題を扱った、とても、優しくて、勇気が出る、本当に良い小説だ。