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読み返したい本たち【30位~21位】

 ある種の隠喩は、そこらにいる人間よりもずっと現実的だ。本の片隅みにひそむある種のイメージは、多くの男女たちよりもずっと鮮明に生きている。ある種の文学のフレーズは、きわめて人間的な個性をもっている。

フェルナンド・ペソア著・澤田直訳(2013).不穏の書 断章、平凡社

 私はこれまで数えきれない本を読んできた。やむにやまれず読んだこともあれば、惰性で読んだこともある。随分、無駄な時間とお金を使ったと思う反面、この無駄を経て、良質な本・著者に巡り会えたように思う。それは、現実の人間との出会い以上に、印象的であり、今の私の思考の一部を構成している。

 人生も終わりに近づいたら、これら良質な本を読み返すことに時間を費やしたいと考えている。そんなこんなで、備忘録も兼ねて、32歳を終えようとしている今、読み返したい本を30冊に整理した。

 私は一般的な人間ではないかもしれないが、決して特殊な人間でもない。それゆえ、平成の始まりに生を享けた人間が、どんな本を読み思想形成をしたかは、この世代を理解するうえで、一つの材料になり得るだろう。その意味で、30冊を選ぶということは、自己省察であると同時に、世代省察にもなり得るかと思う。そんなことも企図している。

 なお、順番は思い入れの深さのようなものであり、同じ著者が独占することを避けるため、1著者1作品に限定することとした。邪魔くさい前置きはこれくらいにして、早速、本題に入ろう。

30位:金子光晴『絶望の精神史』

 今日の日本人のなかにも、まだ残っている、あきらめの早い、あなたまかせの性質や、「長いものには巻かれろ」という考えからくる、看板の塗替えの早さ、さらには節操を口にしながら、実利的で、口と心のうらはらなところなどは、江戸から東京への変革のあいだを生き抜けてきた人びとの、絶望の根深さから体得した知識の深さと言ってもいいものだろうか。

金子光晴(1996).絶望の精神史、講談社

 最初に断っておくが、私は敗戦を経験した昭和の文人の評論・随筆が異常に好きだ。それは敗戦によりこれまでの在り方を全的に否定せざるを得なかった、立ち止まって考えなおさざるを得なかった彼らの境遇が、高校時代に大病を患ったことで、すべてがどうでもよくなった自身の境遇と重ねてしまっているからかもしれない。あるいは、経済成長の時代≒浮足立った時代が終わり、あらためて「戦後」の意味を問わねばならない時代に、我々が生きているからかもしれない。そんなこんなでこのリストには、幾度となく昭和の文人が登場することになるだろう。

 その最初が金子光晴の『絶望の精神史』である。絶望した日本人を鏡にして、明治・大正・昭和の時代の空気と、そこから透けて見える日本人が、描き出される。この世に「日本人論」は溢れており、その中には、名著と呼ばれるものも多い。そのうちのいくつかは私も実際に読んだが、本書以上に、その本質に肉薄したものはないのではないか。自身をエトランゼ(異国人)と呼んだ金子であるが、(だからこそ)自身の日本人性を徹底的に対象化し得たのだろう。

29位:サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』

ヴラジーミル:(苦悩に満ちて)なんでもいいから言ってくれ!
エストラゴン:これから、どうする?
ヴラジーミル:ゴドーを待つのさ。
エストラゴン:ああそうか。

サミュエル・ベケット著・安堂信也・高橋康也訳(2013).ゴドーを待ちながら、白水社

 エストラゴンとヴラジーミルという二人組がゴドーを待つ、暇つぶしに興じながら待つ、言うなればそれだけの演劇。ラッキー、ポッツオ、男の子と2人の他に登場人物がいないわけではない。ただ、本当にそれだけの演劇である。にもかかわらず、芯を食っているように感じるのはなぜだろう。そもそもここで言う「芯」とは何を指すのだろう。

 たまたまこの本の帯が残っていた。そこには『「不条理演劇」の代名詞にして最高傑作』とある。人生の不条理性、すなわち、生きるということに目的などないという事実、にもかかわらず、目的を設定せねば生きることが出来ないという人間の本質。しかし、そもそも生まれたこと自体が偶然なのだから、その目的設定自体を疑問視せざるを得ないという虚無性。最後まで現れないゴドー(≒神?)を待つというシチュエーションは、そういった虚無的現実を、指しているのだろうか。

28位:白洲正子『かくれ里』

 そのような所(かくれ里)には、思いもかけず美しい美術品が、村人たちに守られてかくれていることがある。(略)さいわい私にはそちらの方面の仕事が多く、毎月のように取材に出るが、肝心の目的よりわき道へそれる方がおもしろくて、いつも編集者さんに迷惑をかける。が、お能には橋掛かり、歌舞伎にも花道があるように、とかく人生には結果より、そこへ行きつくまでの道中の方に魅力があるようだ。これはそういう旅の途上で拾ったささやかな私の発見であり、手さぐりに摘んだ道草の記録である。

白洲正子(1991).かくれ里、講談社

 評論、演劇ときて、次は「紀行文」である。私は、白洲正子のことを、その旦那の白洲次郎ー吉田茂の側近としてGHQと対等に渡り合った偉人ーに負けず劣らずすごい人、類まれなる審美眼を持ち合わせた人だったと思う。彼女の眼を通してみた世界は、色鮮やかで艶やかだ。この人は、面白おかしく生きる天才だったと思う。私はこの本が、300年後に、土佐日記やおくのほそ道と同格に扱われていても驚かない。この本を片手に、2か所、かくれ里を歩いたことがある。まだ、20か所以上残っていることが嬉しい。

27位:小島信夫『抱擁家族』

「この家にもっと大きな塀がほしい」
「塀?」
「かこってしまうんだ」(略)
「塀よりも家の中を直さなくっちゃ。あの台所は失敗したなあ。あんなものじゃ台所なんていえないわよ。(略)」
「いや、塀だけのことをいうんだ。かこいたいんだ。」(略)
「こんど作るのなら、どうしたってアメリカ式のセントラル・ヒーティングというやつにしなくっちゃ。」

小島信夫(1988).抱擁家族、講談社

 私は小島信夫と同郷であり、身勝手に親近感を抱き、彼の著作を色々と読んできた。その中で、「アメリカン・スクール」とこの「抱擁家族」が代表作だろうと思う。我々日本人にとって戦後の歴史とは今のところ(そして、もうしばらくは)アメリカと歩んできた(歩んでいく)歴史であろう。そして、この人は、日本人が抱えるアメリカへの劣等感を最もリアルに対象化し得た人だろうと思う。その観点で読むのも、もちろん面白いのだが、何より、彼のユーモラスな文体は独特であり、彼の手にかかれば、悲劇は笑劇にとって代わり、そのことがこの作品に奥行きを与えている。

 抱擁家族の読後感とカフカの読後感は似ている。読んでいる最中は、何かしら大きなものの力の作用を受け、狂人のように振る舞ってしまう登場人物たちに、思わず笑ってしまうとともに、当惑させられる。しかし、読み終わり、冷静にストーリーの全体を思い返してみると、その狂人が、現代人(もっと言えば、私自身)であることに気付かされるのだ。彼の東京大学文学部の卒業論文は「ヒューモリストとしてのサッカレイ」らしい。ユーモアを文学の根幹に据えた小島信夫、もう少し読まれても良い作家だと私は思う。

26位:サマセット・モーム『月と六ペンス』

 だがわたしにも、夫人の申し出が寛大さによるものでないことはわかっていた。労苦は人を高潔にするというが、それは嘘だ。幸福は時によって人を立派にすることもあるが、おおかたの場合、労苦は卑劣で意地悪な人間を作り出すだけだ。

サマセット・モーム著・金原瑞人訳(2014).月と六ペンス、新潮社

 ゴーギャンをモデルにしたストリックランドの人生を、作家であるわたしが語るサマセット・モームの代表作。ストリックランド=月=天才という一つの謎を解明することが、本筋である。最初に読んだのは10年くらい前かと思うが、本書について最初に思い起こすのは、なぜか上記引用文だ。六ペンス=凡人側の描写と分析が鮮やかで、その対比としての月がくっきりと浮かび上がる。お見事という他ない。

 「人間の絆」も非常に面白く、どちらにするか迷ったが、ゴーギャンを好きになるきっかけを与えてくれた「月と六ペンス」を選んだ。なお、リョサも「楽園への道」で、ゴーギャン(とその祖母のフローラ・トリスタン)の人生を描いている。私はゴーギャンのような天才に惹かれる。美や真理以外顧みず、道徳心が欠如した天才に惹かれ、そうあれたらと心密かに思う。しかし、結局のところ、普段の自身の顧みれば、人の顔色を伺い、空気を読み、生活の奴隷になっていることは明らかだ。六ペンスとは、そういう者のことを指すのだろう。

25位:武田泰淳『富士』

 すべての患者を平等に(あたりまえの感情感覚をぬきにして)とりあつかうのが、我らの鉄の規律だとすれば、医師と患者の別なく人間ぜんたいを平等にとりあつかうという、全く不可能な重荷をもひきうけなければならないのではないか。(略)そう、私は反省する。もし、できないとすれば、私は精神科医師として失格することになる。では、私はすでに失格しかかっている。いや、もう救いがたく失格しているのではないか。

武田泰淳(1971).富士、中央公論社

 大学院生の頃、武田泰淳の著作をひたすら読んでいた。書店で手に入るものを読み終えると、図書館の全集で、評論なども読んだ。「司馬遷」、「滅亡について」、「ひかりごけ」、「森と湖のまつり」など名作は多い。僧侶であり、文学者である彼の何がそうまで私を惹きつけたのだろうか。それは、おそらく彼の徹底した「平等」思想であろうと思う。

 武田泰淳の初期作「異形の者」の私は、「人間みな平等に極楽へ行く」と言い切ることで、極楽行きの切符の価値をないものとする。これは、「全ては神であり、我々みな平等にその一部である」とすることで、神の有り難みを剥奪してしまうスピノザに似ている。精神病院を舞台にした「富士」では、正常と異常の区別が問われる。戦争に突き進む日本社会全体が「異常」なのであれば、精神病者として病院に押し込められている我々こそむしろ正常なのではないか。登場人物はそういった問いを読者に突き付ける。

 武田泰淳は、一般人=正常者と異常者の区別を廃し、個別的な人間を見ようとした。何かと人は、アイツはアスペだ、サイコパスだと異常者扱いする。また、言われた側も、精神病と診断を受けることで、「病気なのだから仕方がない」と安心をする(という側面もある)。大事なことは、その人をその人として受け止め、共に生きる道を模索することであるにもかかわらず。そういうことを問うているのが武田泰淳であるが、そんな倫理的な議論を抜きにしても、「富士」は抱腹絶倒する程に面白い。自身を天皇と名乗る青年が出てくるあたり、時が時なら発禁処分を食らうであろうスリリングな一冊だ。

24位:ヘルマン・ヘッセ『知と愛』

 ナルチスは彼の方を振り向いた。とたんに彼はほっとした気持ちになった。彼は友の細い顔の中に、彼に向って少年時代以来輝いたことのないあるものが輝いているのを見た。それは、一つの微笑、精神と意志とのみちているこの顔に現われた、ほとんどはにかんでいる一つの微笑、愛と献身の微笑であった。

ヘルマン・ヘッセ著・高橋健二訳(1959).知と愛、新潮社

 知人のSが、「私と友人Cとの関係は、ヘルマン・ヘッセ「知と愛」のナルチスとゴルトムントとのそれにそっくりだ」と評したことがある。ちなみに、私がナルチス、友人Cがゴルトムントらしい。観察と分析が先に立つ私と、街中でナンパすることを日常とし、詩を書くことを愛した友人C。確かにあまり見ない組み合わせであるが、通じ合うものがあった。余談だが、当時、付き合ってた人に知人Cとの関係に嫉妬されたことさえある。もちろん、(まだ)キスはしていない。

 ヘルマン・ヘッセの書くものは、宗教的に過ぎるし、登場人物が、人間として善性に偏りすぎている。苦手な人、読めない人も多いだろう。私は、すでに確固とした自我を持ち合わせた人間が、巡礼、遍歴、放浪、旅の過程で、壁、悪意、災害、そして加齢などにぶち当たり、成熟していく物語(つまり、ヘッセが書くような物語)が好きだ。それはおそらくヘッセの物語を読むと、生きること=老いること=経ることにも、何かしら意味があるのではないかと期待を持たせてくれ、もう少し生きてみるかと思えるからだろう。

23位:中沢新一『チベットのモーツァルト』

 粗大なマッスにまとめあげる結合力から自由になったこの微細な粒子の運動性を、そっくりそのまますくいとることは、言語にはできない。言葉に衝突するたびに、粒子の運動は攪乱されていくからだ。だから、必要なことは、ぼくたちのエクリチュールに、素粒子の飛跡を追うウィルソン霧箱のたくみさと、霧の水滴の微細さ、軽やかさをあたえていくことなのだ。そのとき微細な差異化状態にある意識の粒子は、霧箱に生成変化したエクリチュールに、天使や、笑いや、極楽浄土の音楽や、光の束のきらめきや、風の律動として、その軌跡を残していくようになるだろう。

中沢新一(1983).チベットのモーツァルト、せりか書房

 私は京都の大学に通い、さまざまな京都の大学生と交流を持った。特に、美大生が作る作品を、普通の大学生が批評するようなコミュニティに属していた。百万遍にある思文閣会館の一室や、同志社大学の寒梅館を根城に、映画を観たり、作品を展示したり、読書会をしたりそんなことをしていた。そのコミュニティで、ある時、浅田彰「構造と力」の読書会を行うこととなった。1983年に爆発的に売れた本書は、2010年代に読んだ私たちにとっても、新鮮で、その透明な知性に、震え慄き、心酔した。そして、その同年に出版された中沢新一の「チベットのモーツァルト」も、相当にいかれていることを知り、手に取った。

 浅田彰が、フーコー、デリダ、ドゥルーズなどのポストモダンの思想、「構造」を脱構築する「力」の思想の紹介者だとすれば、中沢新一は、そのポストモダン思想の実践者であった。その実践というのは、政治運動という意味での実践ではない。彼は、チベットで密教の行者になるための訓練を積み、通常の意識、言葉という構造から抜け出し、あらゆることが現実化し得る力の交錯する場に足を踏み入れる。そのファナティックな経験から「チベットのモーツァルト」は生まれた。そのファナティックさに接した20代の私は、頭がおかしくなり、文字通り頭を丸めてスーツを着た労働者になった。

22位:ハンナ・アレント『人間の条件』

 「公的」という用語は、世界そのものを意味している。なぜなら、世界とは、私たちすべての者に共通するものであり、私たちが私的に所有している場所とは異なるからである。(略)ここでいう世界は、人間の工作物や人間の手が作った製作物に結びついており、さらに、この人工的な世界に共生している人びとの間で進行する事象に結びついている。世界の中に共生するというのは、本質的には、ちょうど、テーブルがその周りに坐っている人びとの真中に位置しているように、事物の世界がそれを共有している人びとの真中にあるということを意味する。つまり、世界は、すべての介在者と同じように、人びとを結びつけると同時に人びとを分離させている。

ハンナ・アレント著・志水速雄訳(1994).人間の条件、筑摩書房

 未曾有の被害を出した第二次世界大戦。戦勝国、敗戦国の別なく「われわれは、なぜこのような末路を辿ってしまったのか」と問わざるを得なかった。その問いに、ラディカルな解答を提示し得たのは、私見では、ジョルジュ・バタイユとハンナ・アレントだったと思う。

 何か問題が起こると人は「仕方がなかった。そうせざるを得なかった。私の責任ではない。」と言う。事実、日本の戦争責任者はそう言った。しかし、それで片付けてしまうと、同じことを繰り返す。繰り返さないためには、われわれの生きる条件を括弧でくくり、他でもあり得た可能性を検討せねばならない。ユダヤ人であり、強制収容所を経験した彼女はそんな困難な仕事に取り組んだ。

 その議論は復古的に過ぎるかもしれないが、ますます私的な領域に閉じこもろうとする現代人は、本書の前で立ち止まるべきだろう、と思う(本書の解説をしていないため、何のことか分からないだろうが)。私の周囲には、複数の女性に、「人間の条件」を配っていたバイトの先輩もいれば、アレント研究者になった者もいる。アレント研究者のアレントを読まないゼミに参加していたこともある。私は、熱心なアレントの読者ではなかったが、間違いなく、その影響下にいたのだろうと今になって思う。

21位:佐藤泰志『そこのみにて光輝く』

「金山さ」
「あんた、頭がどうかしたんじゃないの。そんなものがどこにあるっていうの」
「あるんだよ、拓児には」
 もうやめろ、と千夏にいうつもりで達夫はいった。思わず強い調子になった。千夏が達夫を見つめる。煙草を灰皿に押し潰すようにして消しながら、そう、拓児にはね、と千夏はいった。酔いでぐにゃぐにゃになった身体で、あるんだ、あるんだ、と拓児はしきりに頷いた。

佐藤泰志(2011).そこのみにて光輝く、河出書房新社

 第1章、拓児がきっかけで拓児の姉の千夏と達夫は出会う。第2章、拓児がきっかけで、鉱山採掘を生業にする松本と達夫たちは出会う。海辺の街、被差別の象徴であるバラック。そこに住み続けることに拘る拓児と千夏の両親と、そこから抜け出したいと願いつつも、そこへの拘りから、結局はそれに失敗する拓児。そんな拓児と千夏に惹かれ、共に生きることを決めた達夫。そこだからこそ、そこのみにて光輝く彼らの生。登場人物の一人ひとりが魅力的で、忘れ難い作品だ。佐藤泰志は、私が生まれた年に自殺し、他界している。もう少し長生きし、平成の世を生きていたらどんな作品を残していただろう。

 と言うことで、30位から21位までを紹介してきた。リストを作成するとき、1番難しいのは、当落線を引くこと、今回で言えば、30位を決めることである。ギリギリ滑り込めなかった本だけで1つのリストが作れそうだ。また、この文章を書きながら、順番を入れ替えようかと思うことも多々あった。しかし、入れ替え戦の泥沼にはまることが目に見えいたため、当初決めた順を押し通すことにした。次回は、20位から11位まで。

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