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べき論ではない教育論、市民教育はオワコンか?

 先日、次の動画を視聴した。岡田斗司夫氏が2014年11月に東京学芸大学で行った講演であり、2022年5月にYoutubeにアップされたものである。8年前の動画をアップするだけあって、内容は古びておらず、示唆に富む動画であった。今回はこの動画の内容を紹介しつつ、市民教育はオワコンかということを考えてみたい。

講演の内容

 岡田氏は、今回は「べき論ではない」教育について語ると切り出す。つまり、教育はどうあるべきかではなく、どういった社会的背景があって、その時代の教育は求められ、社会的に構築されたのか(いるのか)について語るんだと宣言することから始める。また、岡田氏は教育を「子どもを鋳型にはめる」ことと定義をする。その鋳型はどういった型をしているのか、どういった鋳型が理想とされていたのか(いるのか)が講演の中心テーマとなる。

 結論から言うと、教育は「国民教育」から「市民教育」へ移行し、今「フラタニティ(友愛民)教育」へと移行しつつあると岡田氏は整理している。人類の誕生から江戸時代まで、「民」は教育の対象ではなく、親がその子どもを労働力(資源)として使役していた。(アリエスは『<子供>の誕生』で、近代以前は「子供」は存在せず、今「子供」と呼ばれる存在は、「小さな大人」として認識されていたという議論を展開している。つまり、そういうことだ。)だから、江戸時代までは家庭内躾はあっても、教育はなかった(例外はあるが)と岡田氏は言う。

 しかし、江戸から明治に移り、外圧に負け開国した日本は列強から植民地化されないよう富国強兵を推し進める。上からの近代化であり、産業革命の導入である。産業革命においては、工場で働く「労働者」が必要となる。しかし、教育を施されていない(鋳型にはめられていない)「民」は、工場労働ができない(今のわれわれでは想像できないが)。そこで、学校で服従心と団結心を植え付けることで、工場労働に従事でき、国のために戦争をすることのできる規律を埋め込まれた画一的な「国民」が養成される。これが国民教育である。(ミシェル・フーコーは『監獄の誕生』で、規律を埋め込む権力について微に入り細に入り説明をしてくれていて非常に面白い。)

 その国民教育は、戦後(論者によっては大正期)に否定され、市民教育に移行する。原因は、社会が豊かになり、画一性を国民に押し付けることができなくなったからである(戦争への反省からナショナリズムを嫌悪する思想も影響しているであろう)。市民教育の理念は「個性と競争」である。個性を伸ばそう、個性を発揮して競争に勝ち抜こう、これが市民教育の理想である。(市民教育を教育社会学では「メリトクラシー」、つまりメリット(長所)の支配として呼びならわしてきた。)

 そして、市民教育の次にくる教育を岡田氏は「フラタニティ(友愛民)教育」と措定する。市民教育の時代は、人口ボーナス期であり、経済は成長し、努力をした分だけそれに見合った「成功」が蓋然的に手に入った。しかし、人口オーナス期に入り、南北問題も解消しつつある現代においては、努力をしても、社会的成功、金銭的成功に結び付くわけではない。「成功」はある種の運任せになってしまった(YouTuberとして活躍する若者は努力したから、能力があったから売れた、大金を稼いだわけではない)。これが「市民教育」がオワコンになった原因である。

 この「フラタニティ教育」の本質は、競争の否定、すなわち、「分配と共生」であり、例えば「クラウドファンディングの経済学」が教育の中身になると岡田氏は言う。そして、そこでは「美女やイケメン」が支配者にとなるという。(このあたりの議論は岡田氏の「ホワイト社会」や「評価経済学」の議論を踏まえないと理解できないかもしれない。また、本人もこの辺りは直観によるところが大きいと断言している。それゆえ、今回フラタニティ教育の中身について深追いすることは避ける。)これが、岡田氏の90分に及ぶ講演の要旨である。

市民教育はオワコンか

 岡田氏の市民教育までの議論は、決して新しいものではない。実感としても分かる話であるし、社会学や教育社会学などにおいて、議論し尽されてきた話である。私が一番面白く視聴した点、ショックを受けた点は、市民教育がその有効性を失いつつあると岡田氏が判断するに至った背景にある。それは、繰り返しになるが、人口オーナス期に入り、南北問題も解消しつつある現代においては、経済は長期低迷し、努力をしても社会的成功、金銭的成功に結び付くわけではない社会が到来したということである。

 正直、フラタニティ教育の議論は(未来のことを論じている以上当たり前ではあるが)やや説得力に欠ける。ただ、「市民教育は競争を理想としており、それは競争の結果、成功=幸せが保証されていたからだ。しかし、競争しても成功するかどうか分からない社会が現に今、実現しようとしている」という岡田氏の提示するロジックは、真実味を帯びている(ように少なくとも私には思われる)。

 多くの人は今でも市民教育を、「個性と競争」を尊重する社会を理想としているのではないだろうか。少なくとも、私は、この在り方を理想として考えているし、多分、死ぬまで捨て去ることはできないだろうと諦観している。なぜなら、その思想が、身体にしみついてしまっているからである。努力をしなければならない、人に勝たなければならない、そして何者かにならなければならない。議論をすることはそれ自体として善であり、批判は非難ではなく、正しく民主的な社会を創るためには必要なことである。そう考えている。

 でも、それはもう古い。競争の結果としての「上昇」ではなく、分配と共生という「水平」的な関係性を重視する友愛民にとって、議論をすること、人を批判することは、マナーが悪いこと、人前で屁をこくことと同じなんだよ。「最近の若者はやる気がない、向上心がない」とか言ったり、思ったりしている30~60代のサラリーマン、それは、単に自分が時代に取り残されていることに気付くべきなんだよ。そう岡田氏は言う(他の動画の内容も含む)。

 私は国民教育が嫌いだ。ナショナリズムが導いた帰結(戦争)を想起するからだ。人は群れると碌なことがない。人は団体では責任を負うことはできない。自分の行為に責任を持てるのは、個人として行為した時のみだ。そう考えている。市民教育の信奉者がこのように国民教育を憎むように、多分、新時代の若者は、市民教育の信奉者を憎み、否定するだろう。我々がそうしたように。

大学の教育理念について

 「Be the first penguin.挑戦を、失敗を、恐れるな。」これは立命館大学が掲げる教育理念である。(厳密に言えば、学校法人立命館の学園ビジョンR2030)氷の上にいるペンギンは、1匹目が海に飛び込むと、2匹目、3匹目と次々に飛び込んでいく。海には、ペンギンの食料である魚もいるが、ペンギンを捕食する天敵もいる。飛び込むにはそれ相応の覚悟と勇気がいる。それを持った人材を養成したいという立命館の宣言である。

 崇高だよ、だけど、もしかしたら2030年には(もしかしたらすでに)時代遅れになってるんじゃないかな(もちろん、立命館大学を志す高校生は偏差値社会の勝ち組という意味で、市民教育的価値観を色濃く残しているであろうからもうしばらくは大丈夫だろうけど)。こういった理念が時代遅れになっていること、賞味期限が切れていることに気付いている大学はすでに看板の書き換えを始めてるんじゃないかな。

 そういうことを、市民教育的理念にどっぶり使った旧時代の大学職員、学生募集に従事する大学職員として自己批判的意味合いを多分に含みつつ強く思う(また、盛大に屁をこいてしまった)。

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