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具体性を持った記憶は薄れゆくけれども、一緒にいたという事実は消えない
今日、日本時間では既に日付が変わってるので昨日だけれども、12月10日は愛ぬこの命日であった。
えーっと、何回忌だろう、と計算するも、数字を認識してようやく、すごい節目だし、すごい年月が経過していることに気がついた。
そこから更に、ぬこが自室の本棚で産まれたときまで逆算をして、どれだけ、いつまであいつのことをこうやって折りに触れては思い出すのだろう、と思う。
虹の橋とやらの向こうに行ってしまって暫くは、命日のこの日だけは、思い出してはおんおん泣いてた。
今はさすがにもう泣かない。
悲しいというより、寂しい…?寂しいとも少し違うような気もするけど、あいつの不在を残念には思う。
臨終の深い呼吸に至るまでにかけた声は、逝っちゃいや、じゃなくて、もういいよ、もう頑張らなくていいよ、だった。
それより1週間ほど前から、その日が近いことは否応なく明らかだった。
素晴らしい飼い主だったとは思ってないけど、長い間、素晴らしい相棒でいてくれた。
だから彼が命を穏やかに全うするのに抗うことなく付き合うだけ。
それに抗う考えはなかった。ただ、ヤツの相棒として、最期まで心安く穏やかな時間を共に過ごしはじめた。
いわゆるペットロスにはならなかった。
ただ、彼が彼特有の甘ったれたダミ声でにゃあ、と言わなくなってから、彼のあのダミ声を思い出せなくなるのを恐れた。
幸い今でもちゃんと覚えてる。
彼との思い出は何かの折に断片的に思い出すものの、個々については詳細に思い出せなくなってきている。
彼との記憶は徐々に徐々に概念へと変わっていっているように思う。
それでもダミ声のにゃあだけは覚えられてるし、それ以外のたくさんの思い出が具体性をなくして概念になろうとも、彼と過ごした時間は消え去らないし、事実だったのだ。
もうそれで充分なんだと思う。
彼が逝く時に「もういいよ」と言えたのも、人間関係に対しての肯定感の非常に低い私にとって、この世界でほとんどない、おまえとおれはホントの相棒な、という自身を持つのに充分な関係性が築けた、と思っていたからなのかもしれない。
それすらカイヌシというニンゲンの、都合の良い解釈でしかないのかもしれないけど。
でも同じヒト相手だったとしても、確信なんて持てないしね。
相手が何であれ、こんな風に思える相手がゼロじゃなくてよかった。
誰に対してもこんな風に思えるわけじゃない。
その分、不在を残念に思うというネガティブを背負うわけだけど、そのネガティブを受け止めて背負っていく、ということは幸せなことでもあるんだと思う。
ヤツとは長い付き合いだったなあ、と思っていたけど、今更ながら、ヤツとは長い付き合いになるなあ。
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