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言葉と表現を考える➂ ~障がいの考え方と健常者が大切にすべき視点~

 健常者が障がい者と関わるとき、どのような考えや感情をもつでしょうか?
 私の周囲の障がいのある方々からは、「当事者の意見を差し置かれて関わられることが多い」という報告があります。そうした関わり方の根本には「かわいそう」とか「助けたい」といった憐れみや情けなどの気持ちがあると思われますが、果たして障がい者側はどう思っているのでしょうか?
 精神的に落ち込んでいたり疲弊しているときに、励ましや慰めが必要なこともありますが、そうでないときに一方的かつ過剰に憐れまれるのは、かえってイヤな気持ちにさせてしまうこともあると聞きます。
 障がい者が、いつも悲哀な心持ちという訳ではありませんので、必要なときに必要なことをできるのが良い関わり方ではないでしょうか。
 そうした対等な関係性が平等な社会を築いていくことに繋がると思います。
 そこで、今回は、「障がいの考え方」と「健常者が大切にすべき視点」について考えてみます。

 障がいの程度によっての比較

 軽度の身体障がいを抱えた障がい者に対して、「私の担当している患者さんで、もっと重症な障がいをもったかたがいますよ。」と発言した医療従事者がいました。
 発言者としては励ますつもりだったのでしょうけど、結果的には相手のかたに不快な思いをさせてしまったとのことでした。
 障がいの程度は人によって異なりますが、軽度だからと言ってラクということではありません。障がいの感じ方も人それぞれ違いますし、生活スタイルや仕事、環境等によっても不便さが異なってくるでしょう。
 なので、障がいの程度だけでは、その人の感じている辛さははかれないものです。
 軽度の麻痺だとしても、当人にとっては不自由を被っているのですから、勝手に他者と比較されて、「あなたはマシなほうです。」などと言われようものなら、当事者の辛さを軽んじている発言になってしまうでしょう。
 ましてや、それが健常者による発言ならば、「あなたに何が分かるの?」という気持ちになり、尚更腹立たしく感じてしまうのではないでしょうか。

障がい種別による比較

 また、障がいの種類による比較もしてはならないことです。障がい自体だけでなく、「障がいにより何が失われたかを考えること」が大切だからです。
 例としましては、
●「耳が聴こえないけど、目は見える」「声での会話や音楽を聴くことができない。映画の字幕は見れても、俳優の声や効果音を聞くことができず、臨場感が沸きづらい。」「道を歩いている時、周囲やクラクションの音が聞こえずに危険が生じる。」
●「手は動くが、足は不自由。」「移動に車椅子や歩行補助具が必要となる。生活や移動できる範囲が狭小化し、好きな場所に自由に行くことができない。」「出掛け先がバリアフリー化されているかによって、行けるかどうか左右される。」
●「目は見えるが、手を動かすことができない。」「相手と目で通じ合うことはできるが、触れ合うことはできない。」「あらゆる動作場面において介助が必要となる。」
など・・・さまざまなケースがあります。
  このように、「障がいの種類によってできなくなっていること」だけでなく、「障がいによって、どのような制限が生じているかを具体的に想像すること」が大切であると思います。

「杖使えば良いじゃん?」

 下半身の機能に障がいがあるかたは、「歩きづらいなら歩行補助具(杖や歩行器等)を使用すれば良い」とアドバイスされがちですが、当事者としては「杖を持つこと自体がイヤ。」と、見た目の問題を気にされることもあります。
 下肢が不自由なことにより歩行することが困難あるいは不可能となっている場合、義足や車椅子、シルバーカー等を使用すれば失った機能をある程度は代償可能となります。しかし、それが当事者の望んだ形とならないこともあるのです。
 なので、「杖使えば良いじゃん?」だけでは済まないこともあります。
 私の祖母も晩年になってから足腰が弱くなり、転倒を繰り返していました。まさに「杖を持てば、良いのに!?」の状態でした。
 それでも祖母は杖を持つことを嫌がりました。
 弱りゆく自身の姿を他の人に見られることが嫌との理由でした。また、道具に頼らずに自分自身の足で歩くということに美学を持っているようでもありました。
 このように、「物によって機能を代償する」よりも「物に頼らない」ことを優先する価値観もあるのです。
 もし、無理矢理に杖を持たせたら、人目を避けるために外を歩かなくなり、かえって足腰が弱くなったかもしれません。
 安全への配慮はしつつも、当事者の気持ちを考慮することでしかその人にとっての生活全体における質の向上は果たせません。なので、多角的な視点をもつことで、当事者の求めることを見極めていきたいものです。

 先進国と途上国の医療を比較

 腎不全を患ったかたが受ける「人工透析」という治療があります。
 この透析治療にはいくつかの種類があり、もっとも多く選択される治療方法は、「血液透析」です。血液透析は、平均週3回ほど医療機関に通い、1回3~5時間(人によっては、それ以上長い場合もある)の治療を行います。
 心身への負担がかかる治療なので、サイコネフロロジーという腎不全患者専門の心理学分野があるほどです。それほどの重い負担を伴う治療ですから、医療従事者による患者への心理的ケアも不可欠となります。
 ほぼ永久的に続く辛い治療に苦悩している患者と接するとしたら、どのような言葉をかけたら良いものでしょうか?

 ある看護師が、「透析がしんどい・・・」と嘆いている患者に、「貧困国の人たちは、腎臓を患ったとしても治療を受けることすらできませんよ。日本には治療する選択肢がありますが、生まれた国によってはその選択ができないこともあるんです。」と言って、励まそうとしました。自分より辛い状況下にある人の存在と比較することで、自分は恵まれているという考えになってもらえたらと思ったのかもしれません。
 たしかに、途上国ではあらゆるインフラも整っていないので、透析に必要な水質を確保できず、治療に適した環境を保つこともできません。
 仮に治療ができたとしても医療費が高額になってしまうため、治療自体を受けられないことも多いでしょう。
 腎臓病は不治の病なので、治療をしないと血液中に毒素が溜まっていき、最悪の場合は「死」を迎えることもあり得ます。
 よって、保険適応で透析を受けられるのは、日本をはじめとした医療先進国の特権でもあるのです。その事実については、患者さん自身も理解しているとは思われますが、その事実を知ったところで心身の負担が軽減されるかと言ったら、また別なのでしょう。
 「透析を受けられることはありがたいのだけど、健康な腎臓であれば、透析を受けずに済むのに・・・」と思っているかたが多いのではないでしょうか。
 よって、治療を受けられる恩恵への思いと治療によるストレスは、また別のことなので、そこを混合させてしまうと患者さんも困惑してしまうと考えられます。
 なので、「治療を受けられない人がいるから、受けられているあなたは前向きになりましょう」という励まし方は、的外れな気もします。
 それに、自分より大変な人がいることを引き合いにして自分を良しとするのは、良い考えとは言えないでしょう。やはり、どんな状況であっても、他者と自分を比較するのはナンセンスだと思います。

「こちら」と「そちら」

 健常者と障がい者、医療従事者と患者では視点が異なるので、あらゆる面に相違が生じるのは当然のことです。なので、病気や障がいのあるかたに関わるときは自分自身がどう思うかではなく、あくまでも当事者に主体性を置くことが大切でしょう。
 「この程度の障がいなら大丈夫だろう」とか「どちらのほうが大変だろう」などといった一方的な憶測や決めつけは過ちの元となります。
 よって、こちらではなく、あくまでも相手側がどうかということに着目したいものです。

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