キックボクシングジムBUNGE代表 新田 明臣氏
初代NJKFミドル級王座、第8代全日本ミドル級王座、初代IKUSA U70戦王、WKAムエタイ世界スーパーウェルター級王座、第2代UKF世界ミドル級王座を獲得した元プロキックボクサー。
戦いの中で悟った「非暴力」
私は、キックボクサーとして、K-1をはじめとしたリングの上で多くのファイターたちと戦ってきました。また、格闘家として長い現役生活を全うしながらキックボクシングジムの経営を併行して行い、現在は、東京都渋谷区恵比寿と世田谷区中町にてジムを営んでいます。
このように格闘技の世界を生業としてきた私ではありますが、暴力的なことは好きではありません。
なぜなら、相手を力で抑えるというのは古い時代においてまかり通っていた支配欲に基づく行為であり、場合によっては戦争までも正当化してしまう危険極まりない考えと同じだからです。
格闘技における殴る蹴るという行為は、暴力とはまったく異なります。格闘技はスポーツであり、相手への敬意がある上で成り立つ競技です。一方、暴力は相手を傷つける破壊行為であり、他者の尊厳を脅かす非人道的なものなので、格闘技と暴力は正反対のものなのです。
同じ行為をしているのに異なるというのは矛盾しているように思えるかもしれませんが、行動と精神性の相関関係は密接なものです。どのような精神性の元で行動を起こすかによって、世の中を平和へ導くか、破壊を招くかも変わってくるでしょう。
・・・そのようなことを主張している私ではありますが、若かりし頃は喧嘩ばかりするようなヤンチャな少年時代を過ごしてきました。ビーバップハイスクールや湘南爆走族などの不良を題材とした漫画の影響を受けたことがきっかけでした。実は、格闘技を始めたのも「喧嘩が強くなりたい」というのが理由だったんです。しかし、喧嘩したり悪事を働いても、憎悪や恨みなどの悪しき心しか生み出されませんでした。
キックボクサーとしての現役時代は、シンプルに「肉体的・精神的に強くなりたい」という理由でリングに上がっていました。しかし、格闘家としてのキャリアを重ねていく中で、「自分は何のためにリング上に立っているのだろう?」と思うようになりました。対戦相手に対して嫌いな気持ちどころか何の気持ちもないはずなのに、倒してしまえば自分の評価が上がり、負ければ評価が下がる・・・勝敗によって評価が変動することに矛盾を感じていくようになっていきました。相手も自分と同じ極限の気持ちで戦っている訳であり、いわば同志なのです。よって、相手と対峙することやリングに上がることに対して、どのような意義を見い出せるかということが、私の闘うテーマでした。
本来、格闘技の向かうべき方向は平和に向けられているものなので、格闘技=非暴力なのです。
一方、暴力は、利己主義や非人道的思想に基づくものであり、行く末が破滅へと導かれてしまいます。
利己的な動機からは平和など臨めませんので、暴力行為など何も誇れることなどないはずです・・・
喧嘩で相手を殴り倒したとしても何を得るのでしょう?
勝ったほうが相手より上回っているとか強いとでも言うのでしょうか?
強さとはそのようなものではなく、もっと崇高で愛のあるものです。
それに気付いてからは、格闘技へ臨む姿勢も変わっていき、自分主体だった考え方も改めていきました。
そうして格闘技で培った哲学を元に、あらゆることに愛や敬意をもって取り組んでいこうと決しました。
そして、いつしか戦う理由も変わっていき、「もっと大いなることのために戦いたい。」という思いが沸き上がっていったのです。
大いなる戦いのために
心と身体を極限まで高め合う格闘技の世界では、自分自身の在り方だけでなく、人が生きていく上で大切なことも学びました。それは、人には強さと優しさの両方が必要であるということです。誰かの力になりたいと思った時、助けたいという優しさとその気持ちを行動に移せる強さが必要となります。これらは表裏一体であるため、双方とも備わってこそ人助けや社会貢献といった尊い行いを実現できると思います。
また、それを実現するために必要なのは、知識より想像力だと思うんです。
困っていそうな表情で立ち尽くしている高齢者、1人で泣いている子ども・・・そのような光景を目にした時、みなさんなら何を考え、どのような行動をとりますか?
現代社会は、人間の意識が個々の興味関心事ばかりに向けられるよう社会洗脳されているように感じます。誰か困っている人がいたとしても、スマホの世界の中に逃避してしまって目の前で起きていることに気付かないということも多いのではないでしょうか。これは、他人への無関心なのか、現実逃避なのか・・・その両方か・・・。
目の前で助けを求めている人に気付くことなく、バーチャルな世界から抜け出せずにいる・・・
肉体の存在する現実世界から魂が離れて異世界を彷徨っているのは、健全な状態と言えるのでしょうか?現実を直視したくないときこそ目の前のことを大切にすることができれば、思わぬ出会いや喜ばしい出来事が待っていたりするものです。
人への愛情や住んでいる街への愛着、社会全体への敬意があれば、人助けや優しい振る舞いも自然とできるでしょう。
二次元と三次元の狭間で
人は、教育・環境・人間関係・・・など、あらゆる影響を受けて成長を遂げていきます。本や映像も人の脳・精神に影響を及ぼすでしょう。
ネットの閲覧やテレビ、漫画等は、楽しむ程度なら良いのかもしれませんが、私自身が陥ったように視聴した人物の人生まで変えてしまうこともあるので、場合によってはマイナスに働きかける恐ろしいものにもなり得ます。なので、現在の私は動画や映画、ゲーム等におけるバイオレンスなシーンは一切観ません。
観てしまうと、そのシーンがその日の夢に還元されてしまうからです。悪夢の中で、自分が加害者や被害者となって苦しむことになります。これは、明らかな悪影響が自分自身に及んでいますよね。
世の中には人々の想像力を喚起する作品がありますが、脳や精神への影響を考えて選別しなければ人間の想像力も無法地帯になりかねません。悪影響のある描写が脳にインプットされてしまうと、それがその人の言動や行動にも悪い力として働くようになるでしょう。なので、何気なく得ている情報には何かしらの影響力もあるので注意しなくてはなりません。
現代は、ITの普及によりさまざまな情報が行き交うようになり、ネット上で情報を取得したりコミュニケーションをとることが主流となってきました。
私の若い頃は、今ほどあらゆるテクノロジーが発達していなかった時代でしたので、ネットワークを広げるにも限界があり、人間の及ぶ力にも限りがあると思っていました。それが、現代はテクノロジーの急激な進歩とともに、さまざまな可能性が無限に広がっています。
しかし、膨大な情報量の中から一見したら有益そうな情報は発見できたとしても、真実なるたしかな情報を得られているかといったら疑問に思えてなりません。
お金や便利さばかりを求め過ぎた社会では、出所や信憑性が曖昧であったとしても、それっぽい情報ばかり優先している傾向がある気がしています。たかだかネット上で閲覧しただけの情報が真実であるか否かを疑うこともなく、目の前の情報に踊らされる・・・また、あたかも自分で知見や見聞を広げてきたかのように振舞うのは正常なことなのでしょうか。
これは特定の誰かが悪いということではなく、大人たちが勝手に正しいと思い込んでつくり出したあやまちの結果なのかもしれません。
ITの革新に伴って、著しい変化を遂げていく社会構造の中に経済が絡むことで、本来の意図とは異なる方向へ舵をきってしまったのではないでしょうか。情報社会を促進させるために発展してきたテクノロジーでしたが、ITの産業化が進んでいくことで情報=お金になるという考えが強まったのでしょう。
こうした昨今の情勢を見ていると、資本主義を過剰に追求した成れの果てを見ているような気がしてしまいます。
みんなが貧しかった時代は、人々がお互いに分け合う気持ちや尊重する姿勢がなくては生きていけなかったと聞きます。
一方、現代社会では利益を過剰に優先した挙句に産業構造や働き方が変わり、人々の格差が拡大していきました。そのような社会の中では、物理的に秀でている人が称賛される傾向があります。そうした人たちが、必ずしも能力や人間性も優れているとは限らないはずなのに、現代人は物質的なことばかりを測る尺度が強まっている気がします。そもそも人のことを一方的かつ偏った物差しで測ること自体おかしいのですけどね。
知識<想像力
私は、いろんな情報に触れることで知識のボリュームを増やすよりも、豊富な情報に触れつつも豊かな精神性や想像力を働かせるほうが大切だと考えています。
十数年前のある日、恵比寿駅の近くを歩いていたら、道に迷っていそうな白杖をついた男性がいました。
その日は、年末の忘年会シーズンの金曜日ということもあり、街の中は人で溢れかえっている状態でした。
私がその人に「なにかお困りですか?」と話しかけてみると、「人が多くて行きたい場所の方向が分からなくなってしまった。」とのことでした。
その人の名前は、「菱沼亮(ひしぬまりょう)さん」と言い、全盲の視覚障がい者のかたでした。
目的の方向へ誘導するために、私の腕に掴まってもらいながら一緒に歩きました。その歩いている道中、菱沼さんのお話をうかがっているうちに「視覚障がいがあると、自由に動くことが制限されるので運動不足になりやすいからジム(私の経営するジム)に行ってみたい。」という話になりました。
菱沼さんには、「目が見えないのに格闘技ができるのか・・・」という不安があったようですが、目が見えていた頃に見た格闘技の動きの記憶を辿りながら練習に励まれました。
それから十数年経った現在もジムに通い続けている菱沼さんは、キレイなフォームでパンチやキックを打つことができています。また、全盲キックボクシングトレーナーとしてイベントにも参加していただいています。
私は、障がいは特性であり、個性や色として定義しています。よって、障がいがあるかたを障がい者という属性に当てはめていません。なぜなら「障がい者」というフィルターを通すことで端から偏った視点で相手を見てしまうことになるからです。障がい者だからこうだろうという先入観を持って決めつけてしまうのは良くないと思います。
そうした関わり合いの甲斐があったのか、菱沼さんご自身の力によって「キックボクシングは健常者でなくてはできない」なんていう固定概念を見事にブチ壊してくれました!!
何気ない日常のなかでの「想像性」
いつも当たり前のように食べている食べ物のことでも自分自身の考えをもって食すことが大切だと思うんです。
人によっていろんな考え方があるかと思いますが、私の考えとしては自分で飼っている犬のことは可愛がるけど、牛・豚・鳥などは家畜として屠殺して食肉することに違和感を覚えてしまうんです。また、牧場にいた子牛を「カワイイ」と言った口で、ディナーには焼肉を食べることに矛盾を感じます。なぜなら、動物の種類によって愛着度が変わるなんて人間側の一方的かつ身勝手な理屈だと思うからです。これは、人間の中にある無意識の非情ではないでしょうか。
では、人間と他の動物の違いは何なのでしょう?
人には知能がありますが、動物は人間ほどではありませんね。人間はこの知能から想像力を駆使できるという特性を持っています。この能力を有していることで、人間よりも足が速く、力の強い動物たちを支配できるのは、この知能を活かすことができるからでしょう。
逆に、双方に等しくあるのは本能や感情といったものではないでしょうか。
言うまでもなく、動物も人間と同じように身を楯にしてでも我が子を必死に守りますし、痛みだって分かります。屠殺されるときには、泣きわめきながら苦しんでいるのです。
懸命に生き抜いてきたのですから、本当は死にたくなんかないですよね・・・
スーパーに並べられている食品として加工された「肉」は、元は草原や大地を駆け巡っていたはずの動物たちなのです。
私は、「肉を食べるな」ということを言いたい訳ではありません。ただ、食すとしても犠牲となっている動物たちのことを考える想像力をもつことは大切であると思うんです。その上で、「食べる」「食べない」ということを判断するなら、その選択は自由で良いのではないかと考えています。
動物の生命をいただいているという実感が伴えば最低限の殺生で済むのではないでしょうか。
WE ARE ALL ONE ~すべては1つです~
私の親しい元格闘家である須藤元気氏が、「WE ARE ALL ONE ~すべては1つです~」と語っていました。
「善」と「悪」、「強さ」と「弱さ」、「生」と「死」・・・万物は、見える部分だけでなく見えない部分と一体になって織り成されているということではないでしょうか。
目で見えないところにも目を向けることで、なにが真実であるかを見つめ、どうしたらこの世界を平和へと導くことができるのかを常に考えていきたいものです。
あらゆる恩恵への感謝を胸に
人生はアートであり、学びや悟りで彩っていくことができます。
これからの人生の中では、感謝の気持ちをできる限り多くの人たちに伝えていくことが私の人生のテーマです。
そのアートを見てくれた人たちが笑顔になり、それぞれの花を咲かせていってもらえたらこの上なく幸せですね。
私たちの生きる世の中には、目まぐるしく流動するように価値観が交錯し合い、さまざまな情報も入り乱れています。
そのような世界では、正しいと思っていたことが間違いだったり、信じていたことがまやかしであることもあるでしょう。もしかしたら今目に見えていることが幻かもしれません。
そんな混沌とした世界の中で常識とか当たり前とされていることを自分自身の目で疑ってみることで、また別の視点が生まれて、世界を無限に広げていくこともできるでしょう。
私たちのかけがえのない人生の中で何を信じ、どのように生きていくか・・・
私としましては、先人からの学びや近代科学、他の生物の尊い生命などのあらゆる恩恵を受けて生きていることへの感謝を忘れずに地球貢献をしていきたいです。