落書きみたいな小説
よく、自分の書いた小説を「落書きみたいなもんですから」と言って謙遜する人っているけど、
僕の場合はまんま落書きだ。
なんだったら記号だけのものとか、果てはインクをこぼしただけのものまである。
それでメシ食えてるから驚く。
若い頃からずっと小説を書いていたけど、ずっとデビューできなかった。
「小説になってない」という辛口な批評をよくもらっていた。
なまじ“小説です”って言って出すからこんなことになるのだろう……
どうしてもプロの小説家になりたかった僕は、とても悩んだ末に『落書き』を始めた。
別にストリートでなんかしたわけじゃない。
最初は落書きみたいに力を抜いて小説を書くみたいな意味でやっていた。
でも、僕には落書き的な素質があったらしい。
もしくは、落書きを上梓する才能というべきか。
ある日、間違って落書きが小説になってしまった。
最初それを読んだ時、18世紀に偶然見つかったエンドウ豆の品種みたいだなと思った。あとでメンデルみたいな人とかが偉大な発見をする研究に役立ててもらえたらいいな、と。
その年、僕の書いたその落書きは文学界に衝撃を与えた。
文壇は最後までこの落書きを文学と認めたがらなかったけど、読者の支持がそのまま答えだった。
落書きは出版不況にあえぐ業界を救った。
僕がどこに何を書いても小説になった。
ホニャララってこれだけ本気で使ったやつもいないだろう。
社会現象って僕はそう社会に書いた。だから社会現象が起きた。つまりはそんな騒ぎだった。
街では何か書いてくれと人々から求められた。Tシャツに落書きしてあげた。レシートの裏にも。さらには帽子のつば、車のボンネット……。
人々はそれを小説として読んだ。
もしかしたら小説というものがそれくらい存在崩壊寸前だったのかもしれない。だからこそ僕のこれがコンテンポラリーなものとして確立したんだろう。
街頭アンケートに答えたアンケート用紙も病院で書いた問診票も文学賞にノミネートされた。
それどころかもっとすごい発見があった。
ある時サインもくれと頼まれたことがあってその時に気づいたことなのだが、僕の名前(本名をペンネームにしている)はそのまま小説だったということだ。
名前だけで(ネームバリューという意味じゃなく)10万部売れた。
僕は小説を書くために生まれたのではなく、小説として生まれていたのだ。
でも世の中の僕への要求はどんどんエスカレートしていった。
僕の監修で『小説家』という家系ラーメンの店をオープンしたりもした。ラーメン自体が小説なのだ。
食べた人に言わせれば(僕はさすがに食べてない)、何ものってないのに、全部載せみたいなんだそうだ。
大手紙の朝刊に小説の連載を頼まれたこともあった。これは流石にしっかりしたものをと思って気合を入れていたら、「テレビ欄でいい」とのこと。
仕方なく僕はテレビ欄を書いた。そしたら凄まじい反響があった。“自分は初めて小説を読んだんじゃないか”という気がした人が全国で続出。絶対に映像化不可能と呼び声も高かった。
落書き小説家。その業態を疑う者はもうどこにもいなかった。
確固たる地位ってこんなに、立ちやすいものなのか。
落書きしか書けないくせに
周りから先生、先生と呼ばれているうちに、僕は知らず知らず謹厳に振る舞ってしまっていた。
ふと、ある時、落書きみたいな自分の落書きをまじまじと見てみた。踊らされている人々と見比べながら……。
そしたら、自分の作品群がとても俗悪なものに感じた。
息苦しくなった。
いかに高邁な思想と深遠な哲学に身を固めていても、落書きしか書けないなんて……。
ちゃんとしっかりしたものを書きたくなった。
その日から落書きを封印して、久しぶりに集中して長編小説に取り組んだ。幾晩も夜通しジャズを聴きながら書いた。とびきりのナイトジャズだった。
正しい執筆がこんなにも心を洗ってくれるとは思わなかった。
納得するものがようやく書けて、出版にこぎつけた。
ところがとっておきのそれは世間から酷評を受けた。
『あまりにも小説的すぎている』と、『そんなものを彼が書くはずがない』と。
僕はプリントアウトしたその酷評の裏にそっと落書きを始めた。
△
終
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