創作の独り言 曖昧は芸術を生む
この独り言は多くの内容を「小説」に関して書かれているのですが、今回は少しだけ趣向を変えて、日本語という世界を見ても珍しい言語に触れていきます。私の日本語の理解は、あくまでも「小説を書く上で触れてきた言葉への知識」であるため、学術的に勉強した事はありません。だからこそ、私が思っている日本語像をつらつらとお話していきましょう。
1.日本語は「察する」ことを根底にしている
日本ではよく第二言語として、最もメジャーな英語が推されることが多いですが、少し勉強したことがある人はすぐにその構造的な違いにぶち当たります。中学校でよくやる「SVO」などの言葉がまさにそれを物語っていて、一つ一つ日本語訳して咀嚼していったのは、私にとっても在りし日の記憶となっています。
私は今でも英語の勉強として、英語の文法を認知言語学に寄って説明している本をよく見るのですが、実はそこに転がっている本質的な意味合いは随分と違っているように思えてきます。
具体例を上げ始めると本当にキリが無くなってしまうので、少し抽象的な言い方になりますが、日本語は「相手に察せること」を目的にしていて、英語は「相手に正確な情報を伝えること」を目的としているように感じます。
英語をメインに扱っているコンテンツとして私達の身近なものは「ゲーム」や「映画」などでしょうが、これらに使用されている文章を見てみると、意味通りの言葉を、それぞれ日本語らしい口調に戻して翻訳されています。
当然ながら、これは翻訳というある意味では特殊な言葉の使い方にもあるのでしょうが、そこにある空気感はやはりその国ごとの社会性が如実に現れるところでしょう。
英語は相手のことと自分のことをしっかりと区別した文章を作ります。最初に主語をおいて、「今から言うことは私が、そして貴方に向かって言うよ」と先に宣言しているようです。
けれど日本語は、特に日常会話の際には頻繁に主語が省略されてしまいます。そもそも主語を省略する、ということは字面以上にコミュニケーションをややこしくすることになります。
今話していることは果たして、誰がどこに向かって話しているのか、それすらあやふやになってしまうばかりか、正確に意味合いが伝わらいことすら考えられます。合理性に明らかに欠いていると言わざるを得ないのですが、私達は特段の意図もなくそれを続けています。
勿論、私は英語圏で生活したことがないので、ネイティブの日常会話を殆ど聞きません。そのうえで、少なくとも今までこのように思うような印象を持っています。
相手に察してもらう、そのことに対して特に特化しているかのような日本語という言葉は、「私」と「それ以外」の境界線が随分と薄いように思えます。境界線が薄いということは、それだけ自分のことすらも曖昧に境界線を乱すことと同じであり、どこか空虚な感じすらももたらして来ます。
それだけではなく、日本語は多くの種類の文字を持っています。ひらがな、カタカナ、漢字のメインからなり、時折記号、ややこしいことにアルファベットを使用することすらあります。ネットスラングなどではこれらが顕著に現れていますし、日本語は「拡大的な要素」も持っている事がわかります。
残念なことに、私は日本語についての情報や経験は多いかもしれませんが、他の言語についての情報が恐ろしいほどに少ないです。そのため、実際にこれらのことが正しくて、比較して考えることをしたいのですが、それほどの知識量がないのが悔やまれます。
しかし、私がここ十年足らず日本語に対して向けてきた感情はたしかに、「察すること」と「拡大すること」の二つが根っこにあるように思っています。
2.曖昧さが芸術となることもある
日本語の曖昧な様相は、決して悪いところではないでしょう。日常生活においては、責任をふわっとさせる、今ひとつ意味合いを正確に伝えることができないなど、厄介な側面もあることは事実ですが、ストレートすぎる英語の場合はまた別な誤解を生んでしまう可能性があります。
では、ニュアンスの海に放り込まれた言葉たちは、どのような強みがあるでしょう日本語には、同じような意味合いの言葉が本当に多くあります。雨を例にしてみても、その言葉の細分化は眼を見張るものがあります。
広義における「雨」、まるで霧のように降る「霧雨」、急に降り出す「驟雨」、降ってすぐにやんでしまう「俄か雨」、春に降る「春雨」、ぱっと思いつくものを列挙してもその数は驚くほどに多いです。
これらの言葉はそれぞれ彩りを持った文章を作り出すことができるでしょう。数多の複雑なニュアンスの言葉を組み合わせて、一つの文章として整理させるのは難しいことですが、同時に曖昧だからこその「読み手、受け取りての想像性」を大幅に掻き立てます。
これを示す言葉は数多くあるのに、どうしてこの言葉を選んだのか。その疑問符を生じさせるだけでも価値のあることでしょう。それが、小説のような必然性の担保された虚構の物語であれば、なおのこと想像性は心の底から引きずり出されることでしょう。
勿論それは、その小説のクオリティが高いことが前提となります。だからこそ、書き手は沢山書き、読み直して、自分自身がその境地に訪れているのかを確認するのでしょう。これだけで、曖昧な日本語というのは随分と美しいものです。
確かに小説の上で語られる物語は、それそのものが素晴らしいこともあるのですが、もっと広くは「それを読んだ人がどう思うのか、そしてどのように伝えられていくのか」というものにあると思います。それが悠久の思考を生むこともありますし、永劫の決意を揺るがす場合もあります。多かれ少なかれ、何かしらの変化を我々に与えてくる、ということを考えれば、やはり曖昧であるのは一つの重要な要素になることでしょう。
日本語はあまりにもその言葉が多く、私ももうそろそろ十年近く文章を書き続けているのですが、全体の一割にも満たないほどの理解しかできていません。いえ、それは話を誇張していることでしょう。数パーセント、もしくは更にその下であることも十二分に考えられます。私の浅い経験では、その程度の理解しか得られない。だからこそ、私はこれからもこのようにひたひたと文章を書いていくのでしょうね。
結論
・日本語は「察すること」と「拡大していくこと」がそれぞれ特性にある。
・その曖昧さは芸術を生み、読み手の想像を広げていく。
・最終的にその想像は変化となる、かも?
本日の独り言は以上、閉廷!