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創作の独り言 描写と考察

「描写されていない」と言われることもあるし、「考察の余地がある」って言われることもあるし、矛盾してない?

「考察」という言葉をよく聞くことはあるのではないでしょうか。物語として一つの道筋を持つ物事に対して頻繁に使われる言葉ですが、これには当然ながら「作品には描写されていない外側の部分」を考えることですね。

 ですが、物語に対する批判の一つとして、「描写するべき場所ができていない」と言われることがありますし、私もよく同じ様な気持ちを抱くことがあります。
 この2つは相反するように思えます。描写されていない外側を考える「考察」は、物語の重厚さを物語る一つの指標ですが、しっかりと描写されていないと批判を受ける。

 何が違うのでしょうか。外側を探るのは勿論読み手、つまりは私たち読者です。むしろ表現されすぎていると感じることもありますよね。
 この2つの相反する、と思われることについて、つらつらと独り言を並べていきましょう。

そもそも「描写」とは?

 まず、「描写されている」ということはどういうことなのでしょうか。

 当然ながら、小説は虚構の世界を文字として表現されたものであり、他の媒体の作品に対して、脳にかかる負荷は大きいです。だからこそ、リーダビリティ(可読性)を前提にして成立しています。
 ここでの読みやすさはひとまず、使っている言葉や技法のことではなくて、「描写」そのものに焦点をおいておきましょう。

 実は、私がnoteの記事で頻繁に投稿している「モノローグ」という文体は、小説の中でも一際難しいもの、と私は思っています。基本的に作品は誰かと共有されなければ意味がありません。そんな中、モノローグという一つのものを作品だとして提示された場合、どう思うでしょうか。

 誰のものかもわからない。話している人物がどんな生き方をしてきて、どんな存在であるかも知らず、しかもどこで何をしているかすら曖昧な「モノローグ」は、いわば「文章の魅力さ」だけで人を惹きつけなければなりません。
 これは読み手に相当の負担を強いることになります。視覚的な情報は基本的にすべて通り一遍といえば聞こえは悪いですが、そこに広がっている意味については、読者が考えなければなりません。
 そんな中、状況も提示されずに突然出される「モノローグ」を最後まで見届ける人がどれほどいるのでしょう。おおよそ多くはないでしょう。

 だからこそ、「モノローグ」は書き手の能力がダイレクトに現れるジャンルです。

 なぜ今「モノローグ」を出したのかというと、小説の読みやすさは、第一に「場所」、「時」、「人物」が描写されるところから始まっています。
 この文章はどこで、何を語っているのか。第一にそれが理解できないと、手探りのまま文章を読まされることになります。つまり、「状況を描写する」ことで、リーダビリティを生んでいることになります。
 同時に、虚構という現実味の薄い世界の背景を明確に描くことで、虚構でありながら現実的な世界を描くことができているのです。

 いわば、これが「描写している」ということです。
 薄い現実味を極限まで描写し、虚構でありながらありありとした現実を見せてくる、それが「描写」であると私は思います。

 では描写ができていないとはどういうことでしょうか。様々な映画レビューサイトでは決り文句のように批評家が用いるこの言葉の背景を、小説という文脈ではありますが少し考えていきましょう。
 どんな媒体であっても、「虚構の世界で語られる事柄」を扱うものでは、全てにおいてこの「描写」は成立するでしょうが、そのような文脈において、「描写できていない」とは何でしょうか。

 やはり提示される世界観でしょう。
 例えば、現代社会を舞台にして展開される世界で、突然非現実的な、「天使」や「神」などが出現したとします。

 これだけ見れば、否定も肯定もできないでしょう。
 ただし、それはその先に「描写」があるかに依存します。脈絡なく出現したこれらは、その作品の中で「必然的に」出現したのか、それともそれが一つの謎やテーマとなって、作品の主軸になっていく等であればわかりますが、オブジェクトとしてこれが出現した場合、私達はどのような感想を抱くのでしょうか。

 唐突感が否めない、出現する意味がわからない、おおよそこの辺りのことが浮かび、同時に作品に対する強烈な現実性の薄さを覚えることでしょう。
 先程述べたように、描写は作品における「現実性」を強く表現するものです。作品の世界観がどれほど荒唐無稽であるか、などということは関係なしに、非現実的なものであっても、多くの人が見て馬鹿げていると判断されても、その世界がどれほど精密に描写されているかで「現実性」が変わってくるはずです。

 先の例に戻りましょう。
 現代社会で非現実的な「神」などの類が突然出現しました。その理由は、実はこの世界は、本当に「神」によって作られた存在であり、その動向を密かに観察されていて、国の上層部の人間はこれらを知っていたとしましょう。
 そしてその存在していたと思われる証拠や、国の上層部の不可解な行動などがあれば、荒唐無稽だった「神」という要素が途端に輪郭を帯びますね。
 当然ながら、これだけではまだ現実性は薄いはずです。これをどれほど重厚に仕上げるかは、まさに作品を展開する腕に一任されることでしょう。

 これらがいわば「描写されている」ということなのではないでしょうか。薄っぺらい根拠ばかりを並べて急に「神が襲ってくる」など言えば、失笑ものかもしれませんが、背景に転がっている必然性を並べれば、あながち冗談とも言い切れなくなる。
 それこそが現実性を厚くし、読者である私達は虚構の世界に一抹の現実を見る。それこそが「描写している」のです。

それを踏まえて「考察」って?

 では、「考察」に話を戻しましょう。

 ここまで長い独り言を聞いた方なら、もう「考察」が良好な点として評価される理由がわかったはずです。
 徹底的な描写がなされた物語の世界は、虚構であれ強烈な現実味を持つことになります。ですが、物語はあくまでもその世界の一部分のみしか語られることはないでしょう。

 故に「考察」は、徹底的に作り上げられた世界の、更にその外側で行われている物語や機構を考えることになります。
 前提として先程の描写がされていなければ、考察する余地すらないという状態になってしまい、まさに「必要な描写がされていない」ということになります。

 つまり最初に提起された疑問である、「描写されていないということと、考察の余地があるというのは、評価点として矛盾するんじゃない?」という言葉は間違いであったことがわかります。
 これら2つは明確に違いがあり、連続的なものであるようです。

 描写されているからこそに考察が生まれる。

 それが一つの確定事項になることでしょう。
 こういうことを考えられるからこそ、創作は面白いのですね。

独り言まとめ

 ・作品を描写する = 作品に現実性を与えるために背景を描くこと
 ・考察は、徹底的に描写された世界があって初めて成立する。
 ・つまり、2つに矛盾はないし、どちらかというと連続的なもの

 という感じで今回は「描写」についての独り言でした。
 頭の中で考えていることを文章化すると、自分でも納得ができるのが面白いところですね。

 次回の独り言は未定です、どうなることやら……。

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